見学記録
2019年6月14日(金)訪城。
最近お気に入りの作家、宮城谷昌光(みやぎたにまさみつ)さん。
確か『古城の風景』だと思うんですが、家康初陣のことについて書かれていたのが、今回訪城するきっかけとなりました。
解説板
住宅街の一角に、ひっそりと佇む『寺部城址』。
今川から織田方に寝返った、寺部城主こと鈴木重時。
そのことに怒った今川義元は、家康(この時の名は元康)に命じて、この城を攻めさせたということです。
これが、家康の初陣です!
この寺部城の他にも、広瀬城、挙母城、梅坪城、伊保城も次々攻め落とし、この辺りを支配していきました。
その一連のお城を、順次上げていきたいと思います。
まず1つ目『寺部城址』。
階段は上らず、まずは道路沿い(左方向)へ行ってみます。
『寺部城址』
寺部城は15世紀、文明年中、鈴木重時によって築城された城で、のち尾州徳川家の家老職家の居城となりました。
鈴木氏時代の遺構は西側の土塁のみで、あとは江戸時代末から明治期の舘の建物の礎石です。
土塁は巾5.1m、高さ2mの立派なもので、土塁の外側は堀となっています。
建物は母屋、書院、茶席、土蔵などがありました。
城の面積は約1万平方メートル、城内には井戸が三個所あり、籠城に備えたものと考えられます。
屋敷内には、つくばいが多数見られましたが、これは十代目当主規綱候が茶人であったことによるものでしょう。―豊田市教育委員会―
(『寺部城址』解説板より)
城って、そこに住んだ人は沢山存在するわけで、歴史の流れを俯瞰する必要が大いにあるなとしみじみ思います。
ここの遺構も、家康初陣に焦点をあてれば、西側の土塁だけがその当時のものなわけで。
館の礎石に思いを馳せても、そこには家康の時代とは関係のないものなんですよね。
そういう意味でも、歴史を知ることは、やはり意味のあることだなぁ。
と自分に言い聞かせる、今日このごろです。
石碑
道路沿いに、石碑が建っていました。
寺部城址
裏を見ますと、鈴木重時、渡辺守綱、明治二年、廃城・・・などの文字が見てとれます。
渡辺守綱。
はて?どんなお方であろうか・・・。
この石碑は、大正5年12月(2019年現在:103年前)に建てられたようです。
マムシ!?
石碑脇を通り中央へ。
『マムシ注意!!』の看板が立っていました。
ヘビならともかく、マムシは勘弁してください・・・
w(°0°)w ギャ~~~~
(;゚∀゚)=3 っ
てヘビじゃないんかい…
いや、ヘビじゃなくても、この絵はキツイ。
城址の森
名木指定第152号。
『豊田市の名木』というのに選ばれているようです。
↓細い木にしなだれかかる、木。
絶妙なバランス。
土塁(戦国時代)
ずんずん奥へ進むと、土塁らしき竹やぶが見えてきました。
鈴木重時の時代の唯一の遺構は、この土塁のみ。
↓土塁の上から横に見た図。
左側は、通ってきた城址ひろば。
右側は、かなりの高低差があります。
店長「下まで降りていってくるわ。」
(え?この高さを降りる?)
わたし「いってらっしゃい、気をつけて。」
下り坂恐怖症のわたしは、迷うことなく見守り隊。
[st-minihukidashi fontawesome=”” fontsize=”” fontweight=”” bgcolor=”#f3f3f3″ color=”#000000″ margin=”0 0 20px 0″]土塁降りたところ[/st-minihukidashi]
[st-minihukidashi fontawesome=”” fontsize=”” fontweight=”” bgcolor=”#f3f3f3″ color=”#000000″ margin=”0 0 20px 0″]堤防から見た寺部城[/st-minihukidashi]
[st-minihukidashi fontawesome=”” fontsize=”” fontweight=”” bgcolor=”#f3f3f3″ color=”#000000″ margin=”0 0 20px 0″]堀らしき用水路[/st-minihukidashi]
↓近くの老人保健施設の脇から見ると、奥にこんもりした寺部城址。
館の礎石(江戸~明治時代)
城址内の葉が風に揺れるその音は、まるでここで命を落とした者たちの雄叫びのようでもありました。
ここに立つと、トトロのような、風の又三郎のような、何とも言えない不思議な感覚に陥りました。
しかし、そんな夢のような時間も、蚊に襲われ、すぐに現実に連れ戻されるはめに…。
江戸~明治に建っていた館の礎石が、いたる所にあります。
↓『又日亭』(茶席)が在った場所ですね。
今は、挙母城址に移築されています。
礎石だけでは、建物の感じは想像できないのが残念。
↓井戸は蓋がされています。
中はどうなっているのか、ちょっと気になりますね。
ここまで来たなら もう一史跡
寺部城址と目と鼻の先。
『守綱寺』(しゅこうじ)
たまたま前を通りかかったんです。
店長が「行こう行こう!」と珍しく興奮して言うので、これは付き合ったらないかんなと思い、同行。
『史跡 守綱寺渡辺家墓所』
あ!
守綱といえば、寺部城址の石碑裏に刻まれていた、あの『渡辺守綱』か。
全然期待していなかったのですが、結論を言うと、行って本当に良かったですよ、ここ。
なぜなら、そこには歴史あるお寺の雰囲気がたまらないのもそうですが、渡辺守綱のお墓があったからなんです。
アプローチは風情があって、空気が澄んでいました。
『渡辺山守綱寺』(わたなべさんしゅこうじ)
旧寺部領主渡辺家の菩提所で三代、治綱によって創建されたものです。
渡辺家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は槍で名高い半蔵守綱(はんぞうもりつな)です。
守綱は、徳川御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属しました。
また十代規綱(のりつな)は又日庵宗玄(ゆうじつあんそうげん)と号し、茶事に精通し、尾張、三河を中心とする現在の中部圏の文化面での指導者でした。
裏千家中興の祖と言われた玄々斉(げんげんさい)はこの規綱の実弟です。
守綱寺には渡辺家歴代の墓碑、大阪城内にあったと伝える濡鷺(ぬれさぎ)の灯籠をはじめ、伏見桃山城の軍議評定所を移築した内陣、錦糸金泥十字名号、安阿弥作、阿弥陀仏木像、渡辺家歴代の肖像画など多数の文化財があります。県指定文化財「絹本著色渡辺半蔵守綱像」
市指定文化財「渡辺家歴代画像」「梵鐘」「守綱寺本堂・鐘楼堂・太鼓堂・山門」「守綱寺渡辺家墓所」―豊田市教育委員会―
(『渡辺山守綱寺』解説板より)
思わず「おぉぉ~」と声が出てしまいました。
木の雰囲気から、歴史を感じずにはいられません。
更に奥へと進むと、重厚感のある墓所がありました。
守綱のお墓です。
合掌。
お墓の配置図がありました。
みなさん、『綱』という字が名前に入っているんですね。
渡辺守綱。
気になる。
調べると、一向一揆で一度は家康と敵対するも、その反逆を許され、家康の為に仕えたとある。
『徳川十六神将』の一人らしい。
敵であった過去も打ち消すくらい、すごい働きをしたんだな。
守綱の小説探そう。
地形図
+プラスのカーソル位置がおおよその所在地です。
お城情報
名称
寺部城(てらべじょう)
城地種類
平城
築城年代
文明年間(1469年〜1486年)
築城者
鈴木重時
主な城主
鈴木氏、本多氏、田中吉政、渡辺氏
遺構
土塁(鈴木重時の時代のもの)、堀、曲輪、館礎石(明治~大正時代のもの)、書院『又日亭』は現在挙母城に移築
所在地
〒471-0017 愛知県豊田市寺部町1-36(寺部城)
〒471-0017 愛知県豊田市寺部町2-27(守綱寺)
開城時間・休城日・入城料
該当なし
アクセス・駐車場
【駐車場】
寺部城:なし
守綱寺:有り
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。