織田信長と今川義元の、あの『桶狭間合戦』が行われた地へ行ってきました。
信長の兵の、実に5倍、10倍あったとも言われている今川軍。
圧倒的に信長不利じゃないの?という状況の中、何と信長が勝ってしまうんですよね!
そして、その合戦地では、未だ勝敗のつかない戦いが密かに進行していたのです。
その名も『名古屋市緑区説と豊明市説!「うちが桶狭間の合戦地だよ」の戦い』
勝手に名付けて、すみません。
ということで、その違いを体感すべく、一気に両者をかけ巡りました。
見学記録 名古屋市緑区サイド
名古屋鉄道「有松駅」からのスタートです。
改札出た所に、桶狭間古戦場の文字が!
気持ちが高ぶっていきます。
有松の町並みは風情があります。
が、本日は残念ながらスルー。
高根山
まずは『高根山』(たかねやま)に向かいます。
結構な上り坂。
高根山
この地は、永禄三年(1560年)桶狭間の合戦の時、今川軍の戦陣として松井宗信率いる約千名が着陣したところで、この辺りで一番高く、(標高50米)鳴海城と織田軍の善照寺砦や中島砦が一望できました。
―有松桶狭間観光振興協議会―高根山案内板より
又、織田軍の別動隊で佐々政次(さっさまさつぐ)、千秋季忠(せんしゅうすえただ)が率いる軍と激戦してこれを打ち破りました。
その間、信長率いる本隊約二千の軍は、中島砦から北方に見える丘陵の狭間を抜けて密かに今川義元本隊が陣取る、桶狭間武路釜ヶ谷(たけじかまがたに)へと向かっていきました。
尚、南方の山続きで幕山、巻山には、今川軍の井伊直盛率いる約千五百が陣取っていました。
信長の本隊とは別の隊が、先にいた今川軍とここで対峙し、信長側が打ち破られていたとは…。
山頂から遠く、名古屋のビル群が見えます。
その間にある善照寺・中島の砦もよく見えたということです。
今川軍は、ここから信長軍の動きを見張っていたのでしょう。
”せんしゅう”とお読みする、千秋季忠は、熱田神宮の宮司。
また、佐々正次は佐々成政のお兄様でもあったんですね。
そんな方々もまた、この地で亡くなっています。
次は、案内板にもある、『幕山』という地を通り、『武路釜ヶ谷・信長坂』へ。
武路釜ケ谷・信長坂
武路釜ヶ谷。
武路というのは地名のようです。
奥に見える大きな建物は、信長坂がある『名古屋短期大学』。
そこを目指します。
そして、釜ヶ谷着。
釜ヶ谷
ここは、信長隊が、今川隊の突撃の機を窺った所です。
―有松桶狭間観光振興協議会―釜ヶ谷解説板より
信長隊が中島砦から密かにこの釜ヶ谷についた時は、はげしい雷雨でありました。
そして、この付近に潜み雷雨の上がるのを見て、おけはざま山に陣取る今川本隊の右翼を急襲しました。
敵が逃げ崩れるところ、その後方にある輿を見つけ、信長は義元の本陣はここにありと確信して、一気に攻撃を仕掛け劇的な勝利をおさめました。
信長は「懸からば引け、退けば引きつくべし」と命じておりましたが、義元の輿を見つけたと言う情報で、すばやく本陣突撃に切り替えられたのは、信長自身が前線に居たからではないでしょうか。
大学構内の前方斜面は、信長率いる軍勢が、突撃の祭駆け上がったと言われており、当時が偲ばれます。
信長が奇襲の際、一気に駆け上がったとされる、『信長坂』。
と り は だ ・・・
不思議と見えてくる、信長の姿。
七つ塚
興奮冷めやらぬまま、お次『七ツ塚』へ。
住宅街の中にあるので、ご迷惑かからないよう、静かにそっと見学です。
七ツ塚
桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、全軍を釜ヶ谷に集めて勝どきを上げた後、村人に戦死者を葬るよう命じて引き上げました。
―桶狭間古戦場保存会―入り口の『七ツ塚』解説板より
村人は山裾に穴を掘り埋葬したと伝えられています。
そして手厚く供養し、いつしか七ツ塚と呼ばれるようになりました。
平成元年の区画整理に伴い塚の一つを残し、そこに碑が建てられました。
民家の間に設けられた小径を行くと、
七ツ塚の碑がひっそりとありました。
七ツ塚
織田信長は、義元を討ち取った後、直ちに全軍を釜ヶ谷に集めて勝鬨を上げ、村人に命じて、山裾に沿って等間隔に七ツの穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させた。
―桶狭間観光振興協議会―奥の『七ツ塚』解説板より
その内の二つが原形を残していました。
里人は七ツ塚、又は石塚と称し、これを取り壊す者は、「たたり」があり、命を失った者も居たそうです。
今は、平成元年の区画整理に伴い塚を整備して、塚の一つを残し、その一角に碑が建てられました。
合掌
桶狭間古戦場公園
今にも雨が降ってきそうな、桶狭間合戦地巡りには、最高の?天候です。
お祭り前日ということもあり、いろいろ準備をされていました。
広々していて、オブジェや解説板も豊富、トイレもあります。
ここは二人並んで、有名な撮影スポットですね!
桶狭間の戦い案内
この附近一帯が歴史に名高い「桶狭間の戦い」が行われたところです。
―名古屋市 桶狭間古戦場保存会― 桶狭間古戦場公園 案内板より
この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公最期の地でもあります。
桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年)尾張の領主=織田信長が、駿河・遠江・三河の領主=今川義元の、10倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた歴史上特筆すべき戦いです。
今川義元は、2万5千余の兵を率いて5月18日に沓掛城へ入り、翌19日8時ころ大高城へ向け出発。
前日瀬名氏俊が設営した「おけはざまの山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした鷲津砦・丸根砦の戦果を聞きながら休息をしていましたが、昼頃天気が急変し雷雨となり、高知に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。
一方、織田信長は午前4時頃清州城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞い直ちに出陣、8時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。
10時頃には善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨のなかを今川義元本陣近くの釜ヶ谷に進み、雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃、遂に今川義元を討ち取りました。(「信長公記」による)
この戦いで戦死者を、織田信長は村人に丁重に葬るよう命じて引き上げました。
村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ツ塚」と称して残してきました。
この他にも桶狭間には、瀬名氏俊陣地跡・戦評の松・長福寺・神明社・高根山・幕山・巻山・生山・武路等の戦いに関連する史跡や地名があります。
このボックスには桶狭間の戦いパンフレットが、数種類入っていました。
今川義元公 馬繋ぎの「ねずの木」、駿公墓碣、田楽坪
今川義元公 馬繋ぎの「ねずの木」
ここにある枯れたねずの木は、着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木と言い伝えられ、田の中にねず塚として残されてきました。
この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えもあります。駿公墓碣(すんこうぼけつ)
この墓石は田楽坪の「ねず塚」に埋められていました。
昭和28年(1952年)に偶然発見され知られることろとなりました。
造られた年月は不明です。
当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそり供養したものと思われます。田楽坪
「中古日本治乱記 慶長7年(1602年)」に桶狭間の戦いの合戦地は「・・・桶狭間のうち田楽坪・・・」とあります。
―桶狭間古戦場保存会― 桶狭間古戦場公園案内板より
「庄屋日記 亨保8年(1723年)には”桶狭間の田楽の坪”について、「・・・村人が毎年この坪で鍬を立て田楽の舞を行っていたが、今川義元が討ち死にしてからは行われなくなり「お鍬社」も郷前へ移された・・・」と記されています。
公園全体がジオラマになっていて、歩きながらその場所を巡ることができ楽しいです。
扇川と手越川の間にある中島砦も、ちゃんと再現されていました。
戦の前に戦勝祈願で訪れた熱田神宮に、勝ったお礼で奉納した信長塀。
ミニサイズでかわいいです。
桶狭間古戦場の碑、鞍流瀬川、田楽坪の碑
桶狭間古戦場の碑
昭和初期に古戦場公園近くの鞍流瀬川(くらながせがわ)より発見されたもので、正面には「桶狭間古戦場」、裏面には「文化13年(1816年)丙子(ひのえね)5月建(たてる)」とあります。
途中で欠損しており以下どのような文字が刻まれていたのが判然としませんが、この碑が桶狭間の戦いの激戦地と言われる田楽坪で発見されたことは、今川義元最期の地か、或いは戦いの中心地であったことを標示したものと思われます。鞍流瀬川(くらながせがわ)
古戦場公園東側に沿う道の半分がかつては川で、激戦によって人馬の血に染まり馬の鞍も流されていたことから鞍流瀬川と呼ばれるようになりました。
ゲンジボタルの群生地で、舞い飛ぶさまは戦死者の霊とも言われていましたが、昭和61年(1986年)の区画整理で埋め立てられ暗渠(あんきょ)となりました。桶狭間古戦場田楽坪の碑
今川軍の先陣 松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫 松井石根氏が昭和8年5月(1933年)に古戦場跡を訪れた時に揮毫(きごう)したものです。
昭和8年8月 郷土史家 梶野孫作 建碑 ―桶狭間古戦場保存会―
この信長に会いたかったの!
『大池』外周を歩いていくと、
『桶狭間古戦場 観光案内所』の看板が目に飛び込んできました。
見学ルートにはなかったのですが、チラッと中を覗くと・・・
そこには、北斗の拳で有名な原哲夫氏作の『織田信長像』が!
「この信長に会いたかったの~!!!」とお仲間さん、大興奮。
つられて私も撮影。
織田信長像
この像は、名古屋市の観光資源である「桶狭間の戦い」や「信長攻路」の価値を全国の皆様に認識していただき、訪れていただくため、漫画家 原哲夫氏の作品「いくさの子-織田三郎信長伝-」と名古屋市がコラボレーションして制作しました。
『いくさの子×名古屋市 名古屋に桶狭間あり。』解説板より
戦評の松
『織田信長像』からほどなくして、『戦評の松』へ到着。
戦評の松
永禄3年(1560年)桶狭間の合戦のとき、今川方の将瀬名伊予守氏俊が、かつてここにあった松の根本に武将を集め、戦いの評議をしたと伝えられる。
ー名古屋市教育委員会ー 戦評の松解説板より
この松は、昔から村人に「一本松」とか「大松」と呼ばれ親しまれていたが、これまでに台風や虫害の被害を受けて、惜しくも枯死している。
現在の松は、軍評定をしのぶ場所として植樹したものである。
当初の松は既に枯れてしまい、これは三代目?の松らしいです。
その碑の裏には何と!
枯れて横たわった、当時の松があったのです!
タケノコではありません。
もっと大事に保管されると良いのにな・・・。
桶狭間神明社
え?
この道を行くのですか?
意外に中は明るく、歩ける状態で一安心。
と思いきや蚊との格闘。
(結果二箇所刺される)
奥まで歩みを進めると、歴史感じる『桶狭間神明社』が待っていてくれました。
桶狭間神明社
御祭神 天照大御神
ー梶尾渡謹書ー 桶狭間神明社 解説板より
桶狭間の里は、1340年代南朝の落武者によって開拓されたと伝へられる。
当社はその人等の村作りの中で心の拠り所として創建された。
「寛文村々覚書」に「神明、山神、愛宕三社内二町二反一畝拾歩前々除」とあるので、慶長13年(1608年)既にこの広い社に奉祀されていたことは明らかである。
桶狭間合戦の折り、今川軍の先発瀬名氏俊武運を祈願。
元禄年間尾張四代目藩主吉道公参拝杉を植樹。
社頭の神木がこれであると云う。
宝暦3年(1753年)社殿の大造営が行はれた。
神楽殿、裏山の瑞垣はその時のもので、1780年蓬州旧勝録に、氏神神明宮長五十間横四十間拝殿鳥居。
毎歳秋8月16日馬の塔壱疋郷内より神明宮へ引渡氏子行列す。とある。
現社殿は、昭和10年改築された。
こちらが正面の鳥居。
私達は裏の方から入ったということですね。
そして、ここから出て、長福寺へ。
長福寺
長福寺
和光山天沢院と号し、天文7年(1538年)善空南立上人によって創建された西山浄土宗の寺院である。
ー名古屋市教育委員会ー 『長福寺』解説板より
寺伝に、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いのとき、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者となって率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。
本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主林阿弥が義元公供養のために納めたものと伝えられる。
寺宝に義元とその家老松井宗信の木造、合戦記を所蔵する。
境内には合戦供養塔がある。
首実検 供養杉
この境内、大杉附近で林阿弥が首検証命ぜられ、後供養した所。
『長福寺』解説板より
供養杉は伊勢湾台風で枯れ、二代目の杉である。
ここで、義元の首実検が行われたんですか!!
弁天池
殺生が禁じられた放生池。
ー長福寺ー『長福寺』解説板より
鎮守は福徳財宝をもたらす弁財天。
江戸時代の史料には「血刀濯ぎの池」と記される。
桶狭間の戦いで血のついた刀がすすがれた場所と考えられる。
この池だけがその事実を知っている。
桶狭間発祥の地
この泉の界隈は、十四世紀中頃、南朝の落人が隠れ住んだとされ、桶狭間発祥の地と呼ばれている。
ー長福寺ー『長福寺』解説板より
泉に浮かぶ桶が廻る様子から、「おけはざま」(桶廻間)の地名が生まれたとする説があるが、長福寺の泉はその伝承を持つ泉の一つである。
往昔の僧侶や村人が生活に用いた清水で、今も枯れることなく湧き出ている。
井戸の傍らには、仏法を守護する龍神が奉られる。
瀬名氏俊陣跡
瀬名陣所跡
永禄3年5月17日、今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約二百名が先発隊として着陣し、村木(東浦)、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と、大将今川義元が19日に昼食する時の本陣の設営をしました。
ー有松桶狭間観光振興協議会ー『瀬名陣所跡』解説板より
その時、瀬名伊予守氏俊が着陣した陣所あとです。
古伝によれば、東西15m,南北38mくらいで、これより奥に位置します。
当時は「トチの木林」で、地盤が高く陣所の形態を留めていましたが、その後は竹林になり、里人は瀬名氏俊をしのび「セナ藪」、「センノ藪」と呼んでいます。
昭和61年池の堤防工事によりセナ藪も取り壊され、今は武をわずかに残しています。
解説板奥に見える、このこんもりとした所が、その瀬名氏俊陣の跡なのでしょうか。
突然クエスチョン!
引率者「瀬名と言うと、誰か思い浮かべる人はいますか?」
(え?アイルトン・セナ?セナの末裔とか?クリス・ペプラーも誰かの子孫とか言ってたしなぁ。外人もあり得るかも。アイルトン・セナですか?言うか?言うか?)
他の参加者「瀬名姫ですか?」
引率者「そうですね。その瀬名姫とこの瀬名氏俊は、名前は同じでも関係はないですよ~。」
(うわぁ~変なこと言わんくて良かったわぁ…セーフ)(;゚∀゚)
今川義元本陣跡
住宅街の坂道を上っていきます。
とあるお宅の前に、碑があります。
おけはざま山
桶狭間合戦は永禄3年5月19日(1560年)
ー平成21年1月設置 梶尾渡ー『おけはざま山』解説板より
信長公記に「今川義元は、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」とある山は、この地で、合戦当時は、現在より8米程高い山であった。
戦当日の午后1時頃は、大雷雨で前記の公記に、この雷雨を「余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり」と記している。
高地に着陣していた今川軍は、落雷により大混乱となっていた。
武路の低地に潜入、攻撃の機を窺っていた織田軍は、好機なりと今川軍の右翼に突入した。
槍を手から放して落雷を避けていた今川軍は武器を捨て、逃走した。
追撃した織田軍は義元の塗輿を発見、信長は大音声直ちに本陣攻撃を命じた。
今川軍は旗本300余名、義元を中に円陣体形で退却中、士気上る織田軍は果敢な突撃を繰返した。
今川軍は四散、義元は田楽坪に追い込まれて討死。
午后4時頃、織田軍の勝鬨に谺していた。
信長は永禄10年(1567年)稲葉城を攻略。
天下布武を宣言、翌年足利義昭を奉じて上洛。
以来奮戦すること20年、天下大半を制して、天正7年(1579年)安土に天下無双の城を築上。
その間に、兵農分離、楽市楽座、関税廃止、インフラ整備等、彼の理想とする撫育民姓政策を実践、庶民を権門より開放して、農・工・商業の自立自栄の途を拓いた。
信長の熱い想ひは、秀吉、家康に継がれて、250年間戦争の無い平和な近世を作った。
近世の第一歩は、この地この山から踏み出されたのである。
みやびあけぼのの名も、この古事から名付けられたものである。
おけはざま山からの眺め。
ふと足元のマンホールに目をやると、『とよあけし』の文字が・・・。
厳密に言うと、ここは豊明市なようで、このガードレールが緑区と豊明市の堺なのだとか。
細かいことはまぁ置いておきましょう。
この付近に置かれていたパンフレット『桶狭間古戦場コース』も、大変興味深いものがありました。
緑区ルネッサンスフォーラム発行。
パンフレット内の地図に手書きの補足解説もあり感動。
見学記録 豊明市サイド
高徳院
緑区の義元本陣跡のおけはざま山から、歩いて約10分。
ここからは豊明市の史跡です。
あじさいが綺麗な寺院正面。
中へ入ると、すぐに『今川義元工本陣跡』の碑が。
碑の裏には、今川義元直系19代 芹澤さんのお名前が刻まれていました。
こちらは七石表、二号碑。
ちなみに一号碑の義元の碑は『桶狭間古戦場伝説地』内にあります。
松井宗信の墓、桶狭間七石表二号碑
松井宗信の墓
遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治9年山口正義によって建てられた。
正面 松井兵部少輔宗信墓桶狭間七石表二号碑
ー豊明市教育委員会ー『高徳院』解説板より
昭和8年(1771年)、尾張藩士の人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之が建立した。
この場所は、今川義元の重臣松井宗信の戦死の地と伝えられる。
正面 松井八郎冢或云五郎八
今川治部大輔義元の墓
駿河・近江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560年)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。
ー豊明市教育委員会ー『桶狭間古戦場伝説地』解説板より
ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月に、この墓を建てた。
地域のボランティアの方に解説をしていただきました。
七石表(一号碑)
桶狭間の戦いで今川義元の戦士した場所を示す、最も古いものである。
ー豊明市教育委員会ー『桶狭間古戦場伝説地』解説板より
昭和8年(1771年)、尾張藩士人見弥右衛門桼、赤林孫七郎信之により建てられた。
北面「今川上総介義元公戦死所」
東面「桶狭間七石表之一」
南面「明和8年辛卯12月18日造」
と刻まれている。
七石表。
今川勢の亡くなった武将を祀った七つの石碑。
一つは『今川義元』、もう一つは先程の高徳院にあった『松井宗信』。
残りの5つは、名前不明の『5人の武将』が亡くなった所に、それぞれ碑が建っているようです。
並んで建っていないところに、どことなくリアルさが漂っています。
古戦場
この地は、永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。
昭和12年12月21日 国指定史跡 ー豊明市教育委員会ー『桶狭間古戦場伝説地』解説板より
今川義元・松井宗信無名の人々の塚があり、昭和8年(1771年)七石表が建てられた。
文化6年(1809年)には桶狭間弔古碑が建立された。
また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑4などがある。
石碑の下部には『傳説地』の文字。
あくまで伝説。
されど伝説。
鎧掛けの松
名鉄「中京競馬場前」駅の裏手。
この一角に『鎧掛けの松』の碑があります。
今はもう、その松はありませんでしたが、かつてここにあったであろう松の木に、戦いを終えた信長は鎧をかけたと言われています。
もう跡形もないので、最大限に想像力を働かせる必要がありますね。
両者を巡ってみて、それぞれこんなにも多くの史跡が残っていることに驚き、また感動しました。
なぜこうも、人は真実を知りたがるのでしょう。
そういう自分もそうなのですが。
真実が何なのか、もはや謎。
でも謎が多いと、”もっともっと”と、知りたい気持ちが止まらず、いつのまにか夢中になっている。
人も歴史も、その過程がおもしろいのかもしれません。
地形図
史跡情報
遺構
名古屋市緑区
高根山
武路釜ケ谷・信長坂
七つ塚
桶狭間古戦場公園
戦評の松
桶狭間神明社
長福寺
瀬名氏俊陣跡
今川義元本陣跡
豊明市
高徳院
桶狭間古戦場伝説地
鎧掛けの松
アクセス
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