織田徳川連合軍vs武田軍の長篠合戦の時、酒井忠次がおこなった武田軍への奇襲攻撃があります。
忠次が信長に提案した作戦は皆の前で却下されたものの、それは間者を欺くための演技であり、後に信長からおもしろい作戦だと大いに褒められたという逸話が残っています。
今回は、その忠次が武田軍を奇襲した【鳶ヶ巣山砦】へ行ってきました。
なるほど「とびがすやま」と言うだけあって、新城の至るところで鳶をよく見かけました。
車の目の前を急降下で接近してきた時には、息が止まりましたよ。
さぁ、鳶ヶ巣山砦へ登りましょう。
鳶ヶ巣山砦
こうして見てみると、長篠城が武田軍に挟まれていることがよくわかります。
愛知県道439号、牛渕橋(長篠城址ビュースポット)の交差点から鳶ヶ巣山へ入っていきます。(イエローライン)
駐車場
山道を突き当たりまで行くと、駐車案内の看板がありました。
すみに駐車し、そこから徒歩で300m先の目的地を目指します。
金比羅神社の前を通りぬけ
ずんずん歩いていくと、道中、史跡保存作業のおじさんに出会いました。挨拶するとフレンドリーに話しかけてくれました。
どこから来た。
名古屋です。
名古屋だで徳川か。
はい、酒井忠次隊で来ました。
行ってきます。
駐車場から300メートルはあっという間。
解説板や、長篠合戦当時にあったとされる杉の木が残されていました。
残念ながら杉の木は倒れ枯れていましたが、しみじみ見入ってしまう存在感がありました。
解説によると、鳶ヶ巣山砦だけでなく、武田軍が長篠城を包囲していた砦は全部で5つもあったということです。
鳶ヶ巣の戦い
天正3年5月8日、武田勝頼は、1万5千の大軍を以て長篠城を包囲した。
その時乗本側に5つの砦を築き(図参照)守兵1千を配して包囲の一環とした。
君ヶ伏床には和田兵部、姥ヶ懐には三枝勘解由兄弟、鳶ヶ巣には主将武田兵庫頭信実、中山には名和無理之助並びに五味与惣兵衛、久間山には浪合民部等がこれにより、堂々の陣を張っていた。20日の夜、徳川の臣酒井忠次は、4千の兵と500丁の鉄砲隊を引き連れ、?川の松山峠を越えひそかに五砦の背後に迫っていた。
21日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に、鬨の声を挙げ一斉に攻め込んで来た。
解説版より
武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、特に鳶ヶ巣では、壮烈な争奪戦を三度も繰り返したが、ついに衆寡敵せずして、信実以下ことごとくここに戦死を遂げたのである。
一晩で鳶ヶ巣山砦まで行っただなんて凄い行動力
天正の杉
この枯木は、明治7年の台風によって倒れた杉の木の残がいである。
解説版より
倒れても暫く余命を保っていたが、昭和12年頃に枯死してしまった。
樹令は不明であるが、300年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから
「天正の杉」と呼ばれている。
鳶ヶ巣山砦陣地
天正3年(1575)長篠合戦において、武田軍は長篠城包囲態勢の一環として、乗本側の鳶ヶ巣を主軸に久間山・中山・姥ヶ懐・君が臥床の五陣地を築き、武田信実兵1千を擁して守っていた。
鳳来町観光課 解説版より
織田・徳川軍の聠合軍は、5月20日の夜酒井忠次が4千の兵を率い、密に松山峠の嶮を越え背後を突く奇襲作戦に出た。
両軍激闘の末信実は戦死し、五陣地ことごとく壊滅した。
武田信実って誰だろう?
武田信実という人がこの鳶ヶ巣山砦を任されていた人らしいけれど、どんな方なんだろう?
ひえ~
武田信玄の異母弟とは!
すごいお方が任されていたんですね。
シーンとした中で一人浸っていると、先を行く店長から電話があり、道を降りてきてくださいと。
降りましょう。
結構急なので、慎重に…。
あ!のぼりじゃん!
おぉ…カッコいい
長篠城を見下ろす
木々に囲まれ、少し広場が見えるのが、長篠城の本丸跡です。
当時はここまで木々はなかったのでしょうから、丸見え状態ですね。
駐車場への帰り道、作業のおじさんにまた話しかけられました。
お、どうだった?
はい、良かったですよ。
戦況はどうだ。
全滅させました。
ほうそりゃ家康さんに褒めてもらえるな。今夜は祝杯だな。
ありがとうございます。
なぜだか感謝の言葉を述べて、帰路についたのでした。
おじさんとの出会いが、史跡めぐりを更に楽しいものにしてくれました。