城・史跡をあるく 愛知県の城・史跡

田峯城(田峰城) 愛知県の城

2019年2月25日

田峯城

2019年2月23日(土)
愛知県北設楽郡(山の奥の方)にある、田峯城へ行ってきました。
田峯と書いて、”ダミネ”と読みます。

田峯城

町のあちこちに 案内板

初めて訪れる人にとって、嬉しい道案内の数々。

田峯城

案内図はもちろんのこと

田峯城

2股の道には矢印看板

田峯城

迷わず目的地まで

田峯城

城前にも入口看板が。

少し細い坂道を上がっていくと

田峯城

予想外に広い駐車場があります。

お手洗いもあって一安心。

田峯城

お城の解説板がありました。

『歴史の里 田峯城』
「田峯城は、県下有数の高山である段戸連峰を間近に控え、寒狭川の渓流をはるかに見下ろす標高387mの独立丘陵にある山城です。
本丸から見下ろした寒挟川の蛇行と城をいただく山並みが、まさに大蛇のようであることから、田峯城は別称「蛇頭城(じゃずがじょう)」「竜の城」とも呼ばれていました。

田峯城は文明2年(1470)菅沼定信によって築かれ、定信→定忠→定広→定継→定忠と、代々田峯宗家菅沼氏の居城とされました。

当時は下剋上の時代、今川氏をはじめ武田氏、織田氏、徳川氏などの強大な戦国大名が台頭するなか、この奥三河では作手(つくで)の奥平氏、長篠の菅沼氏、そして田峯の菅沼氏三氏が「山家三方衆」として結束していました。しかしその団結も時によっては崩れ、姻戚関係でありながらも骨肉相食む戦いを繰り広げることになります。
五代目城主定忠は武田方に従い、家老城所道寿とともに長篠合戦に出陣しますが、武田方大敗の報を受けた留守居の将・叔父定直と家老今泉道善らの謀反にあい、田峯城に入城できずに武田勝頼とともに信州に敗走することを余儀なくされます。
復習を誓った定忠は、翌天正4年(1576)7月14日、田峯城に夜襲をかけ、謀反の一族老若男女96名を惨殺、主謀格の今泉道善を鋸(のこぎり)引きの刑に処しました。
定忠は天正10年(1582)飯田知久平にて討たれ、その後田峯宗家菅沼氏は断絶しました。」

橋を渡ると くるわくるわくるわ

受付はくるわの先、本丸御殿(復元)にあります。

田峯城

斜面には嬉しい杖が。
こういう心遣いが、嬉しいものです。

「空堀」
水をたくわえず「いばら」などを入れて進入を阻んだ。
(パンフレットより 以下略)

山の上に見えるのが、受付のある本丸御殿(復元)です。

「無名曲輪」
言い伝えにないために、このように称されていますが、「帯曲輪」であると考えられます。

「表曲輪」
田峯城の入口近く(表側)にあることから、表曲輪と称されています。

田峯城

「裏曲輪」
表曲輪に対して、裏手に位置することから裏曲輪と称されています。

「畷くるわ(あぜくるわ)」
狭い面積であることから、田峯では「なわてぐるわ」のことを「あぜくるわ」と言っていたようです。

畷曲輪の上のくるわは、「御台様屋敷」
城主の奥方の屋敷があった場所です。

「井戸曲輪」
井戸跡もなく、掘っても水の出る地形ではないため、天水を蓄える設備があったと考えられます。

「蔵屋敷」
蔵があった場所で、当時この蔵には、食物や武器などが保管されていたと考えられます。

「道寿曲輪」
五代目城主、菅沼定忠とともに長篠合戦に出陣した、家老城所道寿の屋敷跡であったようです。

本丸御殿

田峯城

くるわを越えて、階段を登ると

田峯城

搦手門(からめてもん)が見えてきます。
いわゆるお城の裏門。

田峯城

解説板


「この搦手門は、冠木(かぶき)や屋根がなく、門柱のみのつくりになっており、旗竿等を立てたまま通行できるよう工夫されています。」

田峯城

御殿使用料?
え??御殿を借りれるんですか?
素朴な疑問なんですが、みなさん、何に使われているんでしょう。

これから先は、飲食と喫煙はNG。
ただ写真はOKだそうです。

田峯城

靴を脱いで、受付を済まし、御殿の外廊下を歩きます。

解説板


左「広縁(ひろえん)」
一間奥行の吹き放しの縁で、南庭に接して作られています。
室内とのしきりには、内側に唐紙を貼った舞良戸(まいらど)と明障子が使われています。

右「落縁(おちえん)」
広縁よりさらに一段低くなった縁で、雨水が溜まらないよう勾配がとられており、建物と直角方向に板を張る「木口縁」となっています。

田峯城

解説板


左「車寄(くるまよせ)」
上位の客や主人の出入口として使われました。
杮葺唐破風(こけらぶきからはふ)の屋根と両折れの妻戸で飾られています。

右「中門(ちゅうもん)」
寝殿造りにおける中門廊が短くなったもので、御殿への出入口として、使われたと考えられます。

田峯城

お!!!!!!
向こうに見えるは甲冑(〃ω〃)
一気にテンション上がります。

田峯城

胴のところには、「丸に違い鷹の羽」紋。
兜のところに、何か付いています。

田峯城

ガブッ
前歯で必死に噛み付いて、すごい執念を感じます。
一体何の生き物なんだろう?

田峯城

解説板


「上段(じょうだん)」
御殿の中で上座にあたる場所です。
正面に二間の大床と一間の棚があり、右手に帳台構(ちょうだいがまえ)、左手に付書院を設けています。

田峯城

解説板


「付書院(つけしょいん)」
縁に張り出した上々段には、床と付書院を配し、書斎として使われました。

田峯城

解説板


「城紋入胴丸の由来について」
田峯観音に現在奉納されている紋入胴丸は、田峯城唯一の遺留貴重品であります。
調査しましたから参考になればと思い文記をしました。
此の胴丸は、南設楽郡作手村大字清岳在住の白井藤衛氏が田峯城の紋を思われる胴丸を家宝として保存しておりましたが、田峯城の物なれば元の田峯の地に返したいので観音様に奉納したいと昭和の始め総代をしていた清四郎に申し出があり持参した時、郷土史家の熊谷丘山氏が居り、証人となり奉納したことを両氏に聞きました。
それより幾年か過ぎて、私が昭和60年に白井慶次郎(従兄弟)宅をたずね家系図の話を聞きましたら、豊田市松平町の松平親氏家三代信光公の子息であると聞き、位牌を見せて戴きましたら、初代の戒名が昔の殿様と同じであり驚きました。
「致敬院殿真岳宗挙淨入居士」(清右衛門親正)俗名が記されて居りまして、松平町の高月院及び松平東照宮を参拝に行き、社務所に略史を買い求め系図を拝見致しましたら、松平信光公の子息に親正と記されており事実を始めて知りました。
又不思議なことに田峯遺名書の著者堀屋敷小野田平右衛門正遠氏書を父清四郎写本の内に三河代官清右衛門様鳥山牛之助様に御替りと記されて居り、遺名書作年寛永元年(1624年)現在より369年前、写本は大正元年清四郎29才と記。右について長篠合戦終了後1年経過し、田峯城に内乱起きて96名の犠牲者を出したあわれさの後始末をする為に来城した親正代官が持参したものと思われ、白井家にて大切に保存されて居りました事に深く感謝致し、私の推察が参考になれば幸いであります。
今後末永く保存して戴くことを念願する次第であります。
平成5年8月 豊田市京町 伊藤利孝

スゴイ!!
唯一残っている当時の甲冑。
個人所有されていたものが、寄贈されたようですね。
こういう方の証言、鳥肌立っちゃいます!

田峯城

これで刺されたら、内臓が凄いことになりそうです。

田峯城

2月の土曜の昼下がり。
お客さんは、私達の他に3組で、のんびりゆっくり見られました。

壁面の史跡写真

田峯城

「田峯城縁者の墓参」
城所一族、今泉道善の首塚に参拝供養する。

田峯城

「野田城址見学」
新城市野田の城跡は、周辺の市街化が進み遠望は難しくなってきた、また廓(くるわ)の内部はよく残されているが、植林のため視界が悪く内部の撮影は困難であり、入り口の案内板に描かれた平面図により、城の形状規模等については参考にしたい。」

田峯城

「設楽原の馬防柵」
毎年この馬防柵に於いて、長篠合戦を再現させる火縄銃の演技が披露される。
田峯の菅沼小法師形部少輔は、この柵の前を流れる連子川の下流で左翼隊山県昌景に従っていたと言われ、山県昌景が戦死すると退却命令が出てその場を引き揚げたと言われている。

田峯城

「武節城址」
北設楽郡稲武町の国道153号線がトンネルの上に在り、廓跡(くるわあと)は良く残されており、現在は神社の境内となっている。
南側の堀切も見事なものである。
天正3年の長篠合戦に破れた武田勝頼はこの城でしばしの憩いをとった後、現在の国道153号線沿いに甲州へ逃れた。
田峯菅沼が城主であり、城代は菅沼定顕・今泉孫右衛門であった。

田峯城

「菅沼氏の菩提寺に在る釘抜紋の墓石」
静岡県湖西市新所の岩松寺墓地には、田峯菅沼の家紋と同じ釘抜紋の墓石が多く見受けられる。
他にも菅沼氏は在住するが、家紋は三釘抜であり、野田・新城・井伊谷がこの紋をもちいており、地形的に井伊谷菅沼の流れを汲んだ一族であろうか、何れにしても宗家は田峯にあって一族に間違いない。」

田峯城

「道日記城址の現況」
新城市杉山道目記に在り、現在は横浜ゴムの寮が城址の大半をしめており、西北隅の小高いところに稲荷が祀られている。
この城は菅沼定利の居城であり、定利が田峯城を一時期預かり、飯田郡代として飯田に移り、更に、徳川家康が関東を制圧し江戸に向かうと、北信越の備えとして、群馬県の吉井に移封された。

田峯城

「双瀬城址の遠望」
宝来町副川双瀬(ならぜ)に在って、廓の状態は確認困難であるが、釣金寺の近くに館址があるという。
この城は、林左京進長政の城であり、弘治年中今川に属し、田峯の菅沼と相反する立場にあったが、小法師定忠が少年城主になると、その後ろ盾となった。

田峯城

「田内城址の遠望」
設楽町田内にあって、今は杉檜が植えられ遠くからは廓(くるわ)の形も見分けがたい情況であるが、中に入ると廓の状態は窺い知ることができる。
菅沼伊豆守定盛の居城であった。

田峯城

「おゆき弁財天」
一宮町金沢の山中に堂宇が建てられ、おゆき弁財天として城所一族が祀ったものであり、今もなお、城所氏の先祖を育てた大恩人と年々欠かす事無く祭りをしている。

田峯城

「本宮山松源院」
一宮町上長山南宝に在り、本堂の左上方に本宮山を望み、広い庭園の中に厳然とした構えを見せている。
この寺は、城所道寿の孫にあたる六之助が長篠合戦による田峯城の内乱から逃れ、乳母おゆきに連れられこの寺に助けを求めた。
六之助は成長して「一翁伝甫大和尚」となり、松源院七世として祀られている。

田峯城

田峯城を脱出した六之助は本宮山麓の松源院にあずけられ、後第七世一翁伝甫大和尚となる。
弟与一は、義父の里でおゆきと共に隠住し、武田氏の再興を願うも果たさず帰農した。
(向かって左が第七世一翁伝甫大和尚)

展示ケースの品々

田峯城

↑田峯城の家老の子孫 今泉宗男さん

田峯城

↑様々な冊子が販売されていました。

田峯城

↑葵の御紋?

田峯城

雰囲気のある地図です。
田峯城、かなり情報量多い。


これ読めますか?
私は、恥ずかしながら読めませんでした。
「うまや」と読むそうです。
漢字の成り立ちを調べたら、家屋の屋根におおわれた中に、左部分は食器に盛ったごちそう、右部分は手に木を持つ象徴だそうです。
それを知ってもなおピンときておりませんが…。
ま、馬を育てる小屋、ということでいいですかね。

田峯城

立派な小屋ですね。

田峯城

「廐(うまや)」
遠侍(とおざむらい)、草間(くさのま)、立場(たてば)より構成されています。
遠侍は家臣の控えてる間、草間は馬の手入れをするところ、そして立場は馬をつないでおくところとして使われました。

田峯城

遠侍(家臣の控える間)に、何やら魅力的な看板が!
田峯城戦国サミット!
そんなイベントが開催されているんですか?

田峯城

厩の中は写真が一杯飾られていたんですが、その中の一枚。
これが、その「田峯城戦国サミット」でありましょうか?

・・・やっぱり気になったので、戦国サミットを調べました。
全国山城サミット、戦国武将サミット、世界SAMURAIサミット…たくさんヒットしました。
中でも気になったのは、全国山城サミット
2019年は11月9日(土)~10日(日)に可児市で開催されるみたいです。
可児が26回目ということですので、もう26年も前から開催されてる?
え~全く知りませんでした~。
来年2020年の大河が明智光秀ですもんね。
岐阜熱いです!!
私も初参加したいと思います。

本丸大手門

田峯城 本丸大手門

田峯城 本丸大手門

「本丸大手門(ほんまるおおてもん)」
本丸大手門とは、田峯城の中心となる本丸への正式な表門です。
板葺(いたぶき)の棟門で、質実剛健な戦国時代の武家屋敷をしのばせる門構えです。

物見台

田峯城 物見台

「これが物見台かぁ。」
と眺めて終わって帰らないでください。
ここは絶対がんばってでも、上がるべきです。
階段が半端なく怖いんですが、一歩一歩ゆっくりできればパンチラも気にせず一心不乱に上がってください。

そうすると、その先には

田峯城 物見台

こんなに素晴らしい眺めが待っています。
この写真だけでは感動が伝えきれない、私の撮影テクが残念すぎますが。
それにしても、まわりの山々を見下ろすくらいの高位置に、田峯のお城は築かれたんですね。

田峯城 

お城の他に、この田峯という地には、多くの史跡が残っています。
実をいうと、そちらも大いに興奮したのであります。

乳母神様で まさかの遭遇

田峯 うば神様

「乳母神様」
叔父の菅沼定直に追われた小法師丸(定継の子)が、乳母に抱かれて黒倉まで逃げて隠れたが、泣き出したため追手に見つかり乳母はその場で(※)手打ちにされました。
成人した小法師丸が、その霊を弔って建てたのがこの墓石で、もとは山中に所在したが、近年ここに移転。
(※)手打ち:武士が家臣や町人などを自分の手で斬(き)り殺すこと。

田峯 うば神様

田峯 うば神様

出会いは突然に・・・

田峯 猿

乳母神様に手を合わせていると、急に何かが横切りました。
↑撮影成功!と思いきや、全然同化してわかりません。
何を撮影したか、わかりますか?
ここで探し出せたら、相当素晴らしい視力と感覚をお持ちの方です。

田峯 猿

正解はここ。
拡大すると・・・

田峯 猿

猿。
総勢10匹くらいは見たと思います。
わたし、初めて野生の猿に出会いました。
本当に感動と興奮でした。
帰路に就くはずが、興奮のあまり、わたし自ら口走ってしまいました。
「首塚も行っちゃおうか」

首塚

怖がりで、店長からはよく”チキン”と呼ばれるわたしです。
猿効果とは言え、自分から首塚行こうと言ってしまった手前、後に引けなくなりました。

田峯 首塚

「田峯城内乱の首塚」町指定・史跡
三十数基の古石塔(一石五輪塔など)および、場所が指定の文化財です。
この場所は長篠合戦後、城主菅沼定忠に謀反し翌4年(1576)、定忠の夜襲によって捕らえられ処刑された、96人の首をさらした所といわれています。
古石塔の最古は推定16世紀末です。

田峯 首塚

史跡巡りをしてきた中で、こんなに足取りが重かったのは、ここが初めてです。
石碑のある空き地に車を停めて、この細い坂道を登って行きます。
はぁ・・・

田峯 首塚

ひと一人通れるくらいの細い坂道。
葉っぱで靴底は滑り、あとどれくらい登れば着くのか見当もつかず。
あぁ車がどんどん離れていく・・・不安でたまらない。

田峯 首塚

こういう字体は反則でしょ!!
完全に顔が固まり、腰が引けるわたし。

田峯 首塚

「引き返すなら今だ」
と看板たちに言われているような錯覚。
さっきの猿たちが、仲間を呼んで襲ってくるかもしれない恐怖。
しかし、わたしの不安な気持ちをよそに、店長の足取りは、いたって軽やか。

田峯 首塚

極めつけの、これでもか看板・・・。
本当に意味がわからない。恐怖。
そして、とうとう、首塚到着。
なんだか既にかなりの疲労感。
車から5分位歩いただけなのに。

田峯 首塚

ここは昔、街道だったようです。
多くの人が行き交う中、首を晒されたということですよね…。辛い。
壊されかけの賽銭箱にお賽銭を入れ、心からお祈りしました。

今泉 道善 処刑の地

「首塚行けたから、道善処刑の地も行っちゃおう。」
何の自信なのか、今思えば思考回路がおかしかったんだと思います。

田峯 今泉道善 処刑の地

眺め最高!気分爽快!
でも、そんな気分とは裏腹に、ここでも相当むごい処刑が行われたみたいです。

田峯 今泉道善 処刑の地

↑少し高い位置から全貌を写しました。

田峯 今泉道善 処刑の地

「田峯城主菅沼定忠は、長篠戦敗戦で家老道善らの謀反にあい信州に逃避したが、(※)雌伏一年余で城を奪回、老若男女96人を殺戮(さつりく)、主謀の道善をここで鋸(のこ)びきに処した。」
(※) 雌伏(しふく)の意味:将来に活躍の日を期しながら、他の下に屈従すること。

田峯 今泉道善 処刑の地

鋸引きって、やっぱりのこぎりでひいて処刑される、アレですよね?
あぁ・・・・・・( ;∀;)

田峯 今泉道善 処刑の地

「道善処刑の地(道善畑)」町指定・史跡
長篠合戦に負け逃げ帰ってきた城主菅沼定忠が、留守居の家老今泉道善などの謀反で帰城できなかったことから、定忠は翌天正4年(1576)7月14日に夜打ちをかけ一族郎党96人を捕らえてのち、首謀者・道善の首をこの地で生きたまま鋸(のこぎり)で切り落としました。

胴かなと想像していたけど。首かぁ。あぁ。

田峯観音

田峯観音

帰路に就く前に、田峯観音にお参り。
大きな木が立派です。

田峯。
初めて訪れましたが、わたし、田峯のことがとっても好きになりました。
感動。驚き。ときどき恐怖。発見。ドキドキ。ノスタルジー。

言葉では伝えきれませんが、雰囲気が、空気感が落ち着く感じで、わたしは好きな場所です。
時間がゆっくりに感じて、史跡巡りを通して、タイムスリップしたような不思議な感覚が味わえました。

ありがとう、田峯。
又来ます。

田峯城 地形図

お城情報

名称

田峯城(だみねじょう)

別名

蛇頭城(じゃずがじょう)
竜の城
田嶺城

城地種類

山城

築城年代

文明年間(1469~1487年)

築城者

菅沼定成

主な城主

菅沼定成~定忠
菅沼定利
奥平信昌

所在地

〒441-2221愛知県北設楽郡設楽町田峯字城9番地

電話

0536-64-5505(歴史の里 田峯城)

開城時間

9:00~16:00

休城日

毎週月曜日
祝日の翌日
年末年始(12月29日~1月3日)

入城料

一般210円
小・中学生100円
団体20名以上1割引

アクセス・駐車場

無料駐車場あり
飯田線「本長篠駅」から豊鉄バス田口行で田峯下車、徒歩15分

※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

-城・史跡をあるく, 愛知県の城・史跡
-,

© 2021 ディライト・グッズ