2019年4月23日(火)
岐阜県中津川市にある、苗木城跡へ行ってきました。
何の前情報もなく登城したので、全てが新鮮で、とにかく圧倒されっぱなしの城跡でした。
どことなくペルーのマチュピチュにも雰囲気が似ていますね。
苗木遠山史料館
ゆるい下り坂の一本道を行きます。
続日本100名城、苗木城スタンプが押せるここ、『苗木遠山史料館』に到着。
まずは、こちらで史料収集や大まかな歴史を見ようと入館。
こんなに岩がむき出しの山の上に建っていたなんて驚き!!
史料館1階には甲冑も。
唯一残っている、実物の風吹門も観られました。
受付のところに、続日本100名城スタンプが置いてありました。
見学記録
ボランティアガイドを利用
店長と史料館を見ていたら、声を掛けてくださったボランティアガイドの方がみえたので、史料館2階は後にし、さっそく案内してもらうことになりました。
(利用料金500円)
坂道を登って行くと、苗木城跡の看板が。
史料館に行かず直接城跡に行く場合は、こちらに駐車してもいいですね。
ゆるいカーブの石垣。
カクカクしていない入り口は、珍しいような感じがしました。
足軽長屋跡
ここからの、天守展望台の眺めは一見の価値あり。
巨岩に柱が建っていた跡。
綺麗な石垣?
いやいや、これはお手洗いでした。
風吹門跡
ボランティアガイドさん、イメージ画像のパネルで、当時の面影を見せてくれています。
『苗木遠山史料館』にあった『風吹門』が、かつてはここにあったんですね。
大矢倉跡(三の丸)
三階建ての大きな矢倉。
御鳩小屋とも呼ばれていたそうです。
少し上から見てみます。
更に上から。
駈門跡
この先は、四十八曲り。
木曽川からの登城の際に使っていたようです。
かけあがりもん、と読むのかな。
急そうですもんね。
大門跡
[st-midasibox title=”大門跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
苗木城の中で一番大きな大門は、二階建てで、三の丸と二の丸とを仕切っていた。
門の幅は二間半、二階部分は物置に利用されていた。
領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
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↓馬に乗る時に使った、石階段。
御朱印蔵跡
[st-midasibox title=”御朱印蔵跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
将軍家から代々与えられた領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。
こららの収蔵品の虫干しは、毎年一度必ず行われ、また蔵への出入りには、右側の梯子が使用された。
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綿蔵門跡
[st-midasibox title=”綿蔵門跡(わたくらもん)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。
門の名の由来は、年貢として納められた真綿が、門の二階に保管されていたことからきている。
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二の丸
領主遠山家の住居や、家臣が集まる部屋があったようです。
坂下門跡
[st-midasibox title=”坂下門跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
この門は二脚となっており、門の礎石と手前の石段が良く残されている。
坂道の下にあったので、坂下門と呼ばれていたが、またの名を久世門(くぜもん)ともいう。
これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。
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菱櫓門跡
千石井戸・本丸口門
[st-midasibox title=”千石井戸・本丸口門” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。
千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅(けやき)で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。
千石井戸の東側には、掛け造りの小屋が並んでおり、渋紙蔵、山方蔵、郡方蔵などがありました。
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確かに、今もお水が湧き出ていますね。
武器蔵跡・具足蔵跡
[st-midasibox title=”武器蔵跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
鉄砲や弓等の武器庫で、礎石や縁石は当時のまま残されています。
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[st-midasibox title=”具足蔵跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも呼ばれていた。
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神々しい光が射し、何とも雰囲気のある景観。
玄関口門
[st-midasibox title=”玄関口門” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道でした。
この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋とつながっていました。
通常は鍵が掛けられていて、ここから中に入ることは禁じられており、鍵は目付役が管理していました。
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本丸玄関
[st-midasibox title=”本丸玄関” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
本丸玄関は、天守台より一段低い位置にありました。
そのため玄関を入ると、苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。
玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも、多くの玉石が確認されました。
この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。
玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩にはみ出す形で建物(絵図の居間の部分)が建てられていました。
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本丸・天守展望台
苗木城址碑
天守の柱があった穴を再利用した展望台。
横から見ると、巨岩の上に建っているのが分かります。
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苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
1階部分の名称は「天守縁下(えんのした?と読むのかな)」、板縁を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(三間四方)でした。
ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。
この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。
苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。
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展望台に上ると、良い眺めが待っていました。
馬洗岩
[st-midasibox title=”馬洗岩(うまあらいいわ)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
天守台跡の南下に大岩があり、馬洗岩と呼ばれている。
絵図には「この石廻り二十三間弐尺」とあり、周囲約45mの花崗岩質の自然石である。
馬洗岩の名の由来は、かつて苗木城が敵に攻められ、敵に水の手を切られた時、この岩の上に馬を乗せ、米にて馬を洗い、水が豊富であるかのように敵を欺いたことから付けられたといわれている。
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それにしても、すごく大きい岩。
馬を乗せるの大変じゃなかったかな。
絶妙なバランス!
笠置矢倉跡
[st-midasibox title=”笠置矢倉跡(かさぎやぐらあと)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
本丸からみて西側にある矢倉で、常時何も置かれていなかった。
この絵図では建物が1層に描かれているが、実際は床下も合わせて3階建ての掛屋造りで、巨岩の上に建てられていた。
ここからの眺望が良く、笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」と呼ばれた。
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なるほど~。
今までの流れでいくと、笠を入れる蔵なのかなと思いきや、笠置山が見えるからなんですね。
的場跡
弓矢の練習をしていたのでしょうかね。
的を通り越して、向こう側にいる誰かに当たったりしてないかな、なんて要らん心配をしてみる。
仕切門跡
[st-midasibox title=”仕切門跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
城の二の丸から本丸に至る南側の登り道には、崖沿いに石垣が築かれ、塀が設けられていた。
この仕切門の仕切りの意味は二の丸と本丸との境を意味し、この先は本丸である。
門や屋根付きの2間、4間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。
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帯郭
[st-midasibox title=”帯郭(おびくるわ)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
天守を取り囲む細長い平地です。
戦いのときに役立ちます。
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物見矢倉跡
[st-midasibox title=”物見矢倉跡(ものみやぐらあと)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
木曽川に面した崖の上に、物見矢倉と言われる建物があり、別名を「木曾物見」ともいう。
一部2階建ての4間、6間の建物で、「徒士具足蔵」・「物置」の二部屋があった。
ここからの眺望は素晴らしく、前方には、恵那山に連なる山々が山麓に広がる中津川市街地等を見渡せることができる。
また古文献には「・・・城下には木曽川の流れ、白波を立て、岩にくだけて流れる有り様、土地より向う渡す船棹差し流れをしのぎ、越し行く様、いともあやゆき・・・」とあり、矢倉から眼下に迫る往時の木曽川の様子を記述している。
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八大龍王社
わ!上の方に、蜂の巣が!!
[st-midasibox title=”八大龍王” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
遠山家の守り神。
明治時代に現在の場所に据えられました。
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清水門跡
[st-midasibox title=”清水門跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
門の北側にある大岩の下から清水が湧き出て、どんな時でもかれることがないといわれている。
絵図には桶が描かれ、清水を用水として利用していたことがわかる。
巨岩の合間に安置されている祠は、八大竜王社で明治以降、ここに移設された。
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不明門跡
[st-midasibox title=”不明門跡” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
一段と低い所にある門で、呼び方は「ふめいもん」とも、「あかずのもん」とも言われ、2階建てであった。
2階部分は物置に使用され、1階部分(床下)は門になっていた。
幅約1間の通用口の両側の壁は石垣で、高さは最大で3.2mある。
普段は締め切られ、忍びの門であるといわれているが、現在門から外につながる道は確認できていない。
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厠跡
この石は、用を足す場所だったとガイドさんに教えてもらい、店長に立ってもらいました。
的場跡
[st-midasibox title=”的場(まとば)” fontawesome=”” bordercolor=”” color=”” bgcolor=”” borderwidth=”” borderradius=”” titleweight=”bold”]
苗木城には、弓の稽古場として的場が本丸と二の丸に設けられていた。
二の丸にあるこの的場は、領主居間の南側、一段と低い所にあった。
的場の敷地は長さ30m、幅15m程で、剣、槍、鉄砲の稽古も行われていた。
残っている的の土塁は長さ3m高さ1m程で、右側は石垣、左側と奥は土塁で囲われていた。
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右側の石垣は、近年修復が終わったばかりの箇所らしいです。
石垣・大岩・矢穴
↓組み方が違うのが、造られた時代の違いでもあると、ガイドさん。
↓矢穴
矢(くさび)を打ち込んで、割った跡。
この穴から、掘った人の姿が見えてくるようです。
おまけのオタマ
水たまりの中の黒いの、全部おたまじゃくし!
ちょっとだけ(うぎゃ~)となりましたが(^^ゞ
カエルになったら、また会いましょう。
地形図
お城情報
名称
苗木城(なえぎじょう)
別名
霞ヶ城、赤壁城、高森城
城地種類
山城
築城年代
天文年間(1532~1555年)
築城者
遠山直廉
主な城主
遠山氏、森氏、川尻氏
遺構
石垣、堀、井戸、門(15の門跡がありました)
所在地
〒508-0101 岐阜県中津川市苗木
電話
0573-66-8181(中津川市苗木遠山史料館)
開城時間・休城日・入城料
該当なし
スタンプ設置場所
中津川市苗木遠山史料館(月曜は休館)
(〒508-0101 岐阜県中津川市苗木2897番地の2)
苗木交流センター(資料館休みはこちらで押せるようです)
ボランティアガイド
所要時間:50分~ご希望に応じて
利用料金:個人(9名以下は500円、20名以下は1,000円)観光バス(1台につき2,000円)
事前予約:苗木遠山史料館へ予約 ※12月~2月は冬季休止
アクセス・駐車場
【車】:中央自動車道・中津川IC → 国道257号線 → 城山大橋渡ってすぐ右折
【駐車場】:苗木城跡駐車場(無料)
【電車】:JR中央本線・中津川駅から北恵那交通バスに乗り「苗木」バス停下車徒歩20分
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。