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名古屋城(中に入らない版) 愛知県の城

2019年6月18日

2019年6月1日(土)
名古屋城に入らずに、名古屋城を巡るという教室に参加してきました。
地下鉄名城線『市役所』7番出口からスタート。

見学記録

そもそも、今ある名古屋城は、かつて徳川家康が築いた名古屋城域の一部分に過ぎないということなんですが。
その当時、家康が築いた名古屋城の痕跡を、歩きながらたどっていきました。

1.  名古屋城、実はもっと広かった

私が名古屋城と思っている場所は、水堀・体育館・能楽堂に囲まれた、いわゆる入城料を払って観るゾーン。

しかし、実際はもっと広かったようなのです。
↓少し見にくいですが、「中区」の文字の右上辺り、「高速都心環状線」の文字があるところに印影があります。
これが、堀と土塁を表しています。
ということは、ここまで名古屋城域ということなんですね!
市役所や県庁も、スッポリ入っています。

それにしても、この地図すごくわかりやすい!
国土地理院さまさまです♡

よく見ると、「三の丸」「東外堀町」「東大手駅」など、お城の名残発見。

外堀

さあ、その外堀を見に行きます。
名古屋市地下鉄「市役所前」7番出口から、南に歩いて5分。

大津橋に着きました。

名古屋城 大津橋

↓まさに「堀」と、その掘った土でできた、「土塁」がありました。
これが実際の「外堀」。
普段、車で何気なく通っていたところが、実は外堀だったなんて!

名古屋城 瀬戸電堀川駅

この外堀は、かつて瀬戸電という『お堀電車』が走っていたそうです。
瀬戸から焼き物をここまで電車で運び、近くの堀川から舟で更に運んでいったということです。

名古屋城 瀬戸電堀川駅

ボ~ッと眺めていると、なんだか電車風景が見えてきそうな気がします。

名古屋城 瀬戸電堀川駅

何も知れなければ、雑草が生い茂る場所にしか見えない風景。
もう知ってしまった今、ノスタルジックな雰囲気を存分に堪能。
お金では買えない、時空旅行。

図書館の石垣

大津橋から、西に歩いて約10分の『愛知県図書館』。
この図書館、以前家紋のことを調べるために、一度来たことがありました。

名古屋城 愛知県図書館

そして、驚くことに、図書館のエントランスが石垣なんです!
お団子や三角、四角のマークが到るところにあるではないですか。
矢穴(石を割った時にできる「クサビ=矢」の跡)も沢山残っていました。

名古屋城 愛知県図書館

食いしん坊の私が一番に見つけたのは、【お団子】みたいな刻印。

切断された土塁

外堀は、ところどころ大きな道に分断されながらも、確かに土塁として存在していました。

名古屋城 土塁

名古屋城 土塁

致し方無いとは言え、少し複雑な気持ちになってしまいます。

名古屋城 土塁

外堀探検は、これで一旦おしまい。
「さて、そもそもお城はなぜこの地に築かれたか。」
そんな疑問、抱いたこともありませんでした。
先生からの投げかけに・・・何も言葉がない、わたし。

ココがポイント

1 .家康が清洲からわざわざ町ごと引っ越した理由とは?

ズバリ、それは【地形】なのだそう。
当時、尾張の城としてあったのが清州城。
もともと織田のお城だった清州城は、1600年の関ヶ原合戦後は徳川の城になりました。
しかし清洲は地形から水害に悩まされていたこともあり、熱田台地という少し小高い土地(名古屋)へ、町ごと引っ越すことにしたということです。
町ごと引っ越すって、スゴイ発想と行動力。

濃い緑が、『熱田台地』。
小さな正方形が、天守閣のあるところ。
小高い台地の角っこに、『名古屋城』を築城したことが、地図から読み取れます。

2.  空堀と水堀がある訳

名古屋城には「空堀(からぼり)」と「水堀(みずぼり)」がありました。
それにも理由があるようなのです。
それは、台地の上にある堀か、下にあるか堀かの違い。
雨が降っても、台地の上の堀に溜まった水は、台地の下の水堀へ流れて溜まり、上の堀は空になる、ということだそうです。

水堀

名古屋城 水堀

辰之口水道大樋

名古屋城 辰之口水道大樋

辰之口水道大樋

この樋(とい)は巾下御門枡形の北にあり、樋の両側は石で組まれ底は南蛮たたきでできていた。
東の口に立切(水止め)があり、これは、外堀の推移を一定に保つためであった。
又、西の端は切石の銚子口があり、常に滝となり大幸川(現在の堀川)に落ちていた。

この水堀の水を流す樋は、今は使われていませんでした。

辰之口水道大樋 名古屋城

ダイブしそうな松

一体どうして、こうなったのでしょう。

名古屋城 水堀

清須櫓

この、やぐら。
清洲城の材料を使っていることから、その名も「清洲櫓」。
清州城を、ここでは「やぐら」として使っているなんて、名古屋城の規模の大きさ半端ないです。

名古屋城 水堀 清須櫓

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ココがポイント

天守と櫓の違いとは?

一見天守と見間違うような櫓(やぐら)ですが、そもそもそれらの定義ってなんなのでしょうか。
結論から言うと、『象徴的なものかどうか』だそうです。
両者の構造的な違いもなく、建っている場所も関係ないのだそう。
極端な話、この隅っこにあったとしても、「これは天守だ」と定義づけられれば、それは天守になるということなんですね。

ミステリアスな穴

石垣の下の方に、小さな穴が。
これって抜け道?
何かを祀ったほこら?
これってもしかして、スゴイもの発見しちゃった系?

名古屋城 水堀 祠

ではありませんでした。
明治以降に造られた、排水のための鉄格子。

名古屋城 水堀 祠

この鉄格子の、左が谷積み?右が布積み?
先生の声が遠くて聞こえなかった。
という言い訳。
積み方、一向に覚えられないわたしです。

崩れた石垣

なだらかな緑のところが、石垣が崩れたところだそう。

名古屋城 水堀 崩れた石垣

このゾーンには一般客は入れないそうです。
そう言えば以前、TV『ブラタモリ』で、タモさんたちがココに立って、地形の話を楽しそうにしいたのを観ました。
いつか修復されるのでしょうか。
さてはて。

名古屋城 水堀 崩れた石垣

↓ここが、水堀と空堀の境。

名古屋城 水堀 空堀

空堀

名古屋城 空堀

お~本当にカラだぁ。

名古屋城 空堀

これが、台地の効果なのですね。

名古屋城 空堀

しぜん

ずっとクローバーだと思っていたものが、実は「片喰」(かたばみ)だったという事実。
クローバーは、葉に白い筋が入っているものなんですね。
勉強になります。

名古屋城 片喰

↓グラデーションな、あじさい。

名古屋城 名城公園 あじさい

名古屋城

堀川

突然ですが、堀川(ほりかわ)は、人工の川なんだそうです。
日本酒イベントで何度か堀川に来ていますが、正直もう少し綺麗になってくれたらもっと行くのにな~と密かに思ったりして。

ココがポイント

なぜ、わざわざ川を造ったの?

その理由は以下の3つ

  1. 築城の際に出る、水はけ用
  2. お城のお堀の役目
  3. 物流の為の水路

なるほどね~

名古屋城 堀川

中橋

名古屋城 堀川 中橋

中橋

堀川は、慶長15年(1610年)に名古屋城築城のため開削されました。
この中橋は、江戸時代に架けられた「堀川七橋」のひとつで、他に五条橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋があります。
当時は、五条橋と伝馬橋の中間にあったことから「中橋」と名付けられたと言われています。
江戸時代末期に描かれた尾張名陽図会からは橋のたもとに植木や石を扱う店が並ぶ独特の風情が感じられます。
今の橋は大正6年(1917年)に架けられ、建設当時の華奢な鋼製橋脚、石積橋台などが残る貴重な橋で、橋脚の柱は、溝形鋼が小材片とリベットで縫い合わされた形式で、川に架かる橋では珍しい構造です。
平成23年(2011年)に、名古屋市の認定地域建造物資産に認定されました。
平成26年(2014年)に老朽化のため、欄干や床版など橋上部の補修工事を行いました。
この工事は、伊藤保さん、伊藤たまさんのご遺志と伊藤春子さんのご意向による寄付をいただき施工しました。
(平成26年6月7日 名古屋市)

↓川からの荷揚げに使われた場所が、残っていました。

名古屋城 堀川 中橋

↓昭和34年9月26日 伊勢湾台風潮位

名古屋城 堀川

船着き場・堀留跡

普段は使われない船着き場。
イベント時などに使用されているようです。

奥に見える橋に、「この先障害物有り通行不可」と書いてあります。
ぐるっと回って、その橋の方へ行ってみます。

名古屋城 堀川

橋のたもとに、碑がありました。
ここから南側の堀川は福島さん時代、北側は明治昭和の時代に造られたもので、黒川を通り、矢田川まで続いているようです。

名古屋城 堀川

堀川堀留跡の碑

堀川は、慶長15年(1610年)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられている。
当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、天明4年(1784年)に行われた大幸川の付け替え、明治10年(1877年)の黒川治愿(くろかわはるよし)による黒川の開削、さらに昭和初期の改修を経て現在の姿になった。
朝日橋は、天明5年(1785年)に初めて架橋され、昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの落差エがあった。
その水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落口近くにあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いた時の音から「ドンドン橋」とも呼ばれ、人々に親しまれていた。
かつて、巾下御門(はばしたごもん)に通じるこの地には多くの船が行きかい、今の洲崎橋付近に至る渡船が始まる萬延元年(1860年)頃には、名古屋の交通の中心でもあった。
また、満ちてくる潮にのって、鰹や鰯がこの付近までさかのぼってきたとも伝えられている。
(昭和59年9月 名古屋市)

堀川で、カツオが獲れていたとは!!

城下町

美濃路

美濃路の案内板もありました。

名古屋城 美濃路

四間道

四間道と書いて、”しけみち”と読む。
四間→しけん→しけ

名古屋城 四間道

名古屋城 四間道

名古屋城 四間道

名古屋市四間道町並み保存地区

名古屋城の築城は慶長15年(1610年)に始まり、城下町の建設も同時に進められました。
尾張の政治の中心地も清洲から名古屋へ町ぐるみ移転しました。
これがいわるゆ「清洲越(きよすごし)」といわれるものです。
この地区は清洲越商人の町として生まれ、堀川沿いには、水運を利用して米穀(べいこく)、塩、味噌、酒、薪炭などを城下町へ供給する商家が軒を連ね繁栄しました。
四間道は、元禄13年(1700年)の大火の後、防火の目的や商業活動のため道幅を4間(約7メートル)に広げたことにより、その名がついたといわれています。
四間道をはさんで、東側には石垣の上に連続する土蔵、西側には町家が並ぶこの独特な景観は、元文年間(1740年頃)に形成されました。
堀川からにを揚げた石畳や屋根神様そして子守地蔵尊など、下町情緒が今も都心に残る貴重な地域です。
名古屋市はこの地区を昭和61年6月10日「町並み保存地区」に指定し、歴史的な町並みを守るために必要な建物、保存すべきものを定め、修理・修景工事に対する補助事業などを進めています。
(平成元年3月31日 名古屋市教育委員会)

名古屋城 四間道

屋根神様

四間道から少し脇に入ると、

名古屋城 四間道 屋根神様

『屋根神様』と呼ばれているものがありました。
屋根に突如として現れるその雰囲気は、独特なものがあります。
屋根の上に置くことによって、水災害から守る目的もあったようです。

名古屋城 四間道 屋根神様

屋根神

この屋根神さまは、津島神社・秋葉神社・熱田神宮を祭神とする。
屋根の上に小さな社を祀るという形態は、名古屋独特のものである。
これは、疫病や火災などの恐怖から身をまもるために、庶民の祈りをこめて創られた。

子守地蔵尊

屋根神様の奥には、「子守地蔵尊」。

名古屋城 四間道 子守地蔵尊

子守地蔵尊

地蔵尊研究家芥子川(けしかわ)先生の調査に依り、宝永7年(約250年前)の作と言われます。
其の後、事故に依り地中に埋れ、約120年前現在の御堂の20米南に井戸を堀たる折り発見され、御怫の御名にあやかり子守地蔵尊と呼ばれ近隣の信仰を得て居ります。
明治28年、現在の御堂が再建され、今日に到って居ります。
大祭 8月23日24日
(子守地蔵尊運営委員会 昭和53年)

五条橋

出ました、五条橋。
清洲越の際、この橋も一緒にお引越。

名古屋城 五条橋

名古屋城 五条橋

五条橋

かつて、清州城下の五条川に架けられていた橋を、清洲越(慶長15年(1610年)より行われた清須よりの町つぐみの引っ越しをいう)の際に、この地に移され、橋の名前もこれに由来するといわれる。
元は木橋であったが、昭和13年(1938年)にコンクリート橋に架けかえられた。
元の橋にあった擬宝珠には「五条橋、慶長7年壬刀6月吉日」の銘があり、現在は名古屋城に保存されている。

↓熱田神宮、秋葉神社、那古野神社祭神の社。

名古屋城 五条橋

↓昭和11年の、東から西を見たときの、五条橋の風景写真。

名古屋城 五条橋

五条橋(写真の解説)

煙突のある近代洋風建築は、「弁慶湯」という銭湯で、明治33年に開業し、平成14年に取り壊されるまで100年近くにわたって、庶民の暮らしの中に息づいてきた場所です。
撮影当時は、燃料が乏しい時代で、店主さんがリヤカーを引いて廃材を探し集め、お風呂を沸かし続けました。
戦時中、名城公園にあった練兵場の兵隊さんが銭湯に入る日には、橋の欄干に沿って行列をつくり、その反対側に息子を一目見たさに集まったお母さんたちがそっと立ち並んだこともあったそうです。
中央前方に、名古屋で最も古い歴史をもつ円頓寺商店がのアーチが小さく見えます。
アーケードがつくられたのは昭和39年のことですが、今も昭和を彷彿とさせる盛り場の情緒が懐かしく残されています。
一本路地に入れば、いつか見たレトロな佇まいがそこにあります。
橋の西側に接する美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ街道です。
美濃路の一本西側を通る四間道には、古い町屋や江戸時代の豪商の蔵が残され、城下町の面影がしのばれます。
五条橋を西に渡れば、そこには物語を感じさせる町並みが広がっています。
(協力/伊藤公夫さん)名古屋西区役所

兵隊に送り出した息子を、一目見たいと立ち並ぶ母親たち・・・せつない

名古屋城 五条橋

那古野神社

那古野神社

那古野神社(なごやじんじゃ)

延喜11年(911年)の創建といれわ、素盞嗚命(すさのおのみこと)を祭神とする。
もとは天王社又は亀尾天王社ともいい、城内三の丸にあった。
慶長15年(1610年)名古屋城築城の祭、徳川家康が御神籤(おみくじ)でもって神意を伺ったところ、遷座不可と出たため、そのんまま城内に留まり城の鎮護、名古屋の氏神として祀られた。
明治9年(1876年)現在地に移され、明治32年那古野神社と改称された。
かつて6月15・.16日(現在は7月15・16日)の例大祭には車楽(だんじり)が曳きだされ、また近隣からも山車が集まって、夏の城下町名古屋を鮮やかに彩った。
(名古屋市教育委員会)

那古野神社

東照宮

お隣には東照宮。

東照宮

東照宮社殿

東照宮は元和5年(1619年)尾張藩祖義直が、名古屋城三の丸に創建、明治9年(1876年)にこの地に移されたが、昭和20年戦災により消失した。
現在の社殿は、義直の正室高原院の霊廟で、万松寺内にあったものを大正3年(1914年)建中寺に移し、更に昭和28年に東照宮社殿として移築されたものである。
棟札によれば慶安4年(1651年)の建物である。
県指定文化財。
(名古屋市教育委員会)

おまけコーナー

フォトジェニックな場所

名古屋市地下鉄『市役所前』7番出口。
オブジェ上と一緒に撮るのも、映えそうです。

名古屋城

↓とんがり帽子の『加藤清正像』とお城。
ナイスコンビショット。
と言っても、ここからだとよく見えません。

名古屋城 加藤清正

見えづらいので、文明の力を使ってズームアップ。
こちらの像は、能楽堂の前にあります。

名古屋城 加藤清正

丸の内の意味

丸=廓(くるわ)のことだそうです。
丸の内=廓の内
なので、ここもお城の中ですよ~という地名なんですね。

名古屋城 丸の内

台地(地形)を感じる場所

五条橋から西を見ると、やや上がっている地形が見られます。
これがいわゆる熱田台地。

名古屋城 高低差 熱田台地

その熱田台地から、五条川方面を見ると、下ってる下ってる。

名古屋城 高低差

歩いて回って疲れた分、熱田台地の高低差を存分に体感できた、名古屋城に入らない名古屋城巡りでした。

地形図

お城情報

名称

名古屋城(なごやじょう)

別名

蓬左城、楊柳城、柳が城、亀尾城、鶴が城、金城、金鱗城、金鯱城

城地種類

平城

築城年代

慶長15年(1610年)

築城者

徳川家康

主な城主

徳川氏

遺構

櫓、門、庭園、石垣、水堀、空堀
外には外堀、土塁あり

所在地

〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1

電話

052-231-1700

開城時間

9:00~16:30
本丸御殿、西南隅櫓へのご入場は16:00まで
※2019年8月31日まで開園時間を17:30まで延長(建物内へのご入場は17:00まで)

休城日

12月29日~1月1日
催事等により変更となる場合あり

入城料

大人500円
小・中学生無料
団体大人30名以上450円、100名以上400円
名古屋市65歳以上100円

スタンプ設置場所

正門総合案内所
正門改札(注:16:20迄)
東門改札(注:16:20迄)

アクセス・駐車場

【車】名古屋高速都心環状線「丸の内」出口から北へ5分
【駐車場】正門前・二の丸東、共に有料(30分180円)
【電車】地下鉄名城線「市役所」徒歩1分
【市バス】「市役所」

※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

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