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興国寺城 続日本100名城No.145 静岡県の城

小雨降る中、静岡県沼津市にある『興国寺城跡』へ行ってきました。
小田原からの帰り道、北条氏縁の城跡ということで、立ち寄りを決定。
古城巡りで大変参考にさせていただいている、宮城谷昌光著『古城の風景』全7巻の内、2冊が北条関連となっています。
ここを素通りなんて、できません。

目次

見学記録

『根古屋』の信号を右折。

興国寺城

折角の整備計画の看板ですが、車だとあっという間に通り過ぎ、じっくり見られませんでした。
よって、撮った写真にて確認。
赤丸が『根古屋』交差点。(この看板のあるところ)
こうして見ると、三の丸は現在の道路で分断されているのが、わかります。

興国寺城跡 地図

すぐあるバス停を目印に、左折します。
(※上の看板「三の丸」の「の」辺りがバス停)

興国寺城 駐車場 バス停

二の丸 三の丸

私達は、一番手前の駐車場(三の丸)に停めました。
この先にも2箇所、同じような駐車場(二の丸)がありました。

興国寺城 駐車場

はっきり言って、三の丸と二の丸の区別が写真からは、よく分かりません。

興国寺城 三の丸

ところどころ、土塁が残っていました。

興国寺城 三の丸

三の丸から二の丸へは、段々畑みたいに更に高くなっているようでした。

興国寺城 二の丸

本丸に行くまで、最初の駐車場から、約2~3分歩きます。
私達の他に、2名の登城者の方がみえました。
平日で雨となると、訪れる人も少ないのでしょう。

興国寺城 駐車場

どんつきに解説板があり、その脇にスタンプ台が置かれています。
雨が降っていたので完全に濡れてしまうわけですが、中にビニールケースが入っていたので、それを土台にさせてもらいました。
使い方、それで良かったのかな?

興国寺城跡 スタンプ

パンフレットや資料はなさそうだったので、解説板を一生懸命読むことに。

解説板

興国寺城

興国寺城跡

興国寺城跡は愛鷹山(あしたかやま)の山裾が浮島沼(うきしまぬま)に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道(ねがたみち)と浮島沼を縦断して千本浜へ至る江道(えみち)・竹田道との分岐点に当たり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。
城郭の遺構をよく残しているのは古城(ふるしろ)と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸(やと)に三方を囲まれ、深田足入(ふけたあしいり)と呼ばれる天然の泥田堀(どろたぼり)に守られていた。
古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二の丸、三の丸の3曲輪からなる主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。
本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、上面は天守台と呼ばれる平坦部になっている。
発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。
西端にも狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。
本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていた。
現在、南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状を認めることができる。
この部分に入口が設けられており、発掘調査により土橋が検出された。
本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢台と呼ばれていた。
ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。
二の丸は土塁がほとんど崩されており三の丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。
南側土塁中央に入口があり、枡形が設けられていた。
三の丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。
かつては東南隅に大手口の虎口(こぐち)が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。
周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀は、ほとんど埋められているが、ところどころに小さな池や沼として残され、その面影をしのぶことができる。

平成17年7月―沼津市教育委員会―『興国寺城跡』解説板より

尾根の斜面を削って、曲輪にしたのですね。

興国寺城

興国寺城跡

興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
その後、興国寺城は、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。
天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大しました。
永禄年間には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。
元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となりました。
天正10年(1582年)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。
関が原のの合戦後には、三河三奉行の一人で、「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康影の逐電により廃城となりました。

平成7年3月―沼津市教育委員会―『興国寺城跡』解説板より

本丸

本丸からの眺め。
遠くに街が見えます。

興国寺城

この大通りは、縄手として当時からある通りらしいです。
海まで一本道なのが、とても気持ちが良いです。
当時の様子を、ARで観てみたい。

興国寺城

振り返れば、そこには土塁。
雨でぬかるんでいましたから、一歩一歩、ゆっくり登りました。

興国寺城
本丸土塁

大空堀

雨で濡れた草で足元がぐちゃぐちゃになったって、気にしない。
右方面は『大空堀』とありました。

興国寺城 大空堀

粘土質の滑りやすい土の道にこれ以上は危険と判断し、下まで降りるのは断念。
次回のお楽しみということで。

興国寺城 大空堀

『大空堀』挟んだ向こう側にも曲輪があるようでした。
はたして行けるのかどうかも、大空堀の下まで行っていないので、定かではありません。

興国寺城 大空堀

天守台

先程の分岐点に戻り、今度は左の『天守台』へ。

興国寺城 天守台

天守台ということは、天守があったということですよね。

興国寺城 天守台

この空間に天守が建っていたの?
と思うほど、広くはない場所なのです。

興国寺城 天守台
天守台

しかし、礎石は見受けられました。
どんな天守が建っていのでしょう。

興国寺城 天守台

地面ばかり観ていましたが、ここからの眺め最高!
早雲や、どちへんなし天野さんも、ここから町を見下ろしたに違い有りません。
こういう瞬間が、城巡りの醍醐味でもあります。

興国寺城 天守台

更に奥に進むと、案内板はないものの、『西櫓台』跡とおぼしき空間を発見。

余韻に浸りつつ降りる道中、天守台の石垣を見ることができました。

興国寺城 天守台
興国寺城 天守台
天守台 石垣

ゴツゴツした荒っぽさが、何とも良いですね。

興国寺城 天守台

土塁

二の丸三の丸の駐車場は、土塁もよく見えます。

興国寺城 土塁
興国寺城 土塁

城主

 北条早雲碑 初代城主

最初の城主は『北条早雲』(ほうじょうそううん)。
早雲にとって、ここ『興国寺城』は2番目の城。
最初の城は『石脇城』(焼津市)なのだそうです。

興国寺城 城主

天野三郎兵衛康景碑 どちへんなし

三河出身の天野康景。
わたしも同じ出なので、離れた地で出会うと、無性に嬉しくなってしまいます。

興国寺城 城主
興国寺城 城主

天野三郎兵衛康景

天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうびょうえやすかげ)は元の名を景能(かげよし)といい、天文6年(1537年)三河国に生れ、徳川家康に仕えました。
岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無しの三郎兵衛(どちへんなしのさぶろべい)と評される公平な人物でした。
後に家康の「康」字を拝領し康影と称し、慶長6年(1601年)関ケ原の合戦後一万石を与えられ、興国寺城主となりました。
伝えられるところでは、慶長12年(1607年)、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が置きました。
これが天領の農民であったことから、康影と代官井出志摩守正次の争いになりました。
家康の側近本多上野介正純は康影に足軽を差し出すよう勧めましたが、康影は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。
このため康影は改易になり、興国寺城は廃城となりました。
その後康影は慶長18年(1613年)、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。
墓は沼田の西念寺にあります。

平成11年8月―沼田市教育委員会―『興国寺城跡』解説板より

余談ですが、スマホの某城アプリを起動したら、「どちへんなし」の新たな異名を獲得しました。

彼是偏無し

どんな人や物事に対しても、偏りなく公平に振る舞う方だったようです。
どんな逸話が残っているのか、調べてみる価値がありそうです。

穂見神社

城名にもあるくらいなので、興国寺というお寺があるのだとばかり思っていました。
城跡にあったのは、『穂見神社』(ほみじんじゃ)。

興国寺城 穂見神社
興国寺城 穂見神社

根古屋高尾山穂見神社の由来

この「根古屋高尾山穂見神社」は、国指定史跡興国寺城内にあります。
高尾山穂見神社の本社について
本社である高尾山穂見神社は、山梨県巨摩郡櫛形町(現南アルプス市)の櫛形山北東の山腹にある山間集落高尾に位置します(高尾498番地)。
平安時代にまとめられた書物「延喜式(当時の法令)」に、穂見神社として名前が残り、御正躰が彫られた鎌倉時代の鏡があります。
号と地名が彫られた中では、日本最古の天福元年(1233年)とあり、山梨県重要文化財となっています。

当地 根古屋に勸請
古老の言い伝えによりますと、施主15名の村人が、高尾山穂見神社本社(前述の山梨県)から分祠して、安政4年巳正月(1857年12月巳の日)に、この地、根古屋の大村栄太郎さんの所有地を借用して祀ったのが始まりと言われています。
根古屋に神社を勸請した安政年間には、安政の大地震と呼ばれた巨大地震が発生(安政元年)し、大津波のため浮島沼塩害により大きな被害を受けました。
農作物の収穫が減り住民は疲労困憊していました。
その頃の根古屋の住民は、ほとんど農民であったと思われます。
このような状況の中、地域の代表が神仏の加護を願い、五穀豊穣を祈願して農業神である高尾山穂見神社から分祀してもらい、この根古屋の地に祀ったのが「根古屋高尾山穂見神社」です。

地番 沼津市根古屋字古城359番地
祭神 保食神(うけもちの神)日本神話で五穀を司る神で、五穀豊穣、養蚕成就、商売繁盛に御利益があるとされています。

根古屋高尾山穂見神社 祭典の経緯
安政4年(1857年)に五穀豊穣を願って始まったとされています。
明治中期に高尾講をつくり、30数名でお祀りしていました。
高尾講の人達が頼母子講(たのもしこう)をつくり、大村栄太郎さんから畑を譲り受け、米一俵6升の年貢で貸し、その年貢代金で村中の人を祭典に招き、おふるまい(酒を呑み、ごちそうを食べる)をしたようです。
戦後の農地改革により、年貢地は小作人に解放され、昭和26年、自治会で祀るようになり、自治会と各班が当番町となり協力して祭典を行うようになりました。

平成29年 祭典 当番班第4班

来年の2020年頃から復元整備をすると、続日本100名城公式ガイドブックにも載っていました。
数年後にどう変わっているのか、また訪れるのを楽しみにしたいと思います。
それにしても、城名にもある『興国寺』の名は、一体どこから来たんだろう?
こうしてブログ書いてる今も、なぞ。

地形図

地形図見ると、大堀切もくっきり深い線になっていて、おもしろい。

+プラスのカーソル位置がおおよその所在地です。

お城情報

名称

興国寺城(こうこくじじょう)

別名

杜若城(かきつばたじょう)

城地種類

平山城

築城年代

不明

築城者

不明

主な城主

北条氏、今川氏、天野氏

遺構

本丸、二の丸、三の丸、堀、土塁

所在地

〒410-0309 静岡県沼津市根古屋

電話

055-952-0844(沼津市文化財センター)

開城時間・休城日・入城料

該当なし

スタンプ設置場所

「穂見神社説明看板」横(興国寺城跡本丸)

アクセス・駐車場

【駐車場】無料・3箇所(それぞれ約10数台分)

私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

興国寺城跡 静岡県

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この記事を書いた人

歴史初心者だからこそ気になるポイント、初めて出会う感動、少しずつ理解が深まる喜びなどを、私目線で気ままにつぶやいてます♪

三河生まれ尾張在住
好きなことばは『三河武士』
ディライト・グッズ副店長 & Web屋助手

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