2019年7月22日(月)
わたしが、この城跡で唯一知っているキーワード『しょうじぼり』を観に、山中城へ行ってきました。
今回は、いつもに増して写真の数が多いこと・・・。
まぁ、それだけ見どころが沢山あるということだろうけれど。
現地でじっくり読めない「解説板」も、こうして振り返りながら観るのも、大変勉強になります。
見学記録
スタンプは売店に
県道沿いに、売店(無料駐車場+トイレ)があります。
売店の玄関横(外)に、日本100名城スタンプが設置されていました。
営業時間は、10:00~16:00(※1月、2月は10:30~15:30)
定休日は、月曜日と年末年始。
スタンプは売店の外に設置してあるので、売店の営業とは関係なく押せるようですね。
解説板
道を渡り、この門からスタート。
こちら側にもトイレと無料駐車場があります。
城内、至るところに案内・解説板があります。
よく見ると、同じような解説板でも、書かれていることが微妙に違っていました。
どこが違うかと言うと・・・
1.駐車場にある解説板
国指定史跡山中城跡(昭和9年1月22日指定)
史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
やがて天正17年(1589年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。
この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。
その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水地・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最期の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』解説板より)『国指定史跡山中城跡』(昭和9年1月22日指定)
2.西櫓にある解説板
『史跡山中城跡』(国指定史跡)
山中城跡は、文献によると、小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558年~1570年)に築城したと伝えられる中世最末期の山城である。
箱根山西麓の標高580mに位置する、自然の要害に囲まれた山城で、北条氏にとって、西方防備の拠点として極めて重要視されていたが、戦国時代末期の天正18年(1590年)3月、全国統一を目指す豊臣秀吉の圧倒的大軍の前に一日で落城したと伝えられている。
三島市は山中城跡の史跡公園化を目指し、昭和48年から発掘調査を行い、その学術的成果に基づく環境整備を実施した。
その結果、本丸や岱崎出丸(だいさきでまる)をはじめとした各曲輪の様子や架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。
特に障子堀や畝堀(うねぼり)の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一端を示すものとして注目されている。
出土遺物には槍・短刀をはじめとする武器や鉄砲玉、柱や梁(はり)等の建築用材、日常生活用具等がある。
なお三ノ丸跡の宗閑寺には、岱崎出丸で戦死した、北条軍の松田康長をはじめ、副将の間宮康俊、豊臣軍の一柳直末など両軍の武将が眠っている。平成8年2月―三島市教育委員会―
(『山中城』史跡山中城跡 解説板より)
3.諏訪・駒形神社周辺にある解説板
『国指定史跡山中城跡』(昭和9年1月22日指定)
史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
やがて天正17年(1589年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。
この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三ノ丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。
その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』国指定史跡山中城跡 解説板より)
3つの解説板の比較
設置場所 | 設置年月 | 設置団体※ | 記載内容 |
1.駐車場にある解説板 | 平成11年3月 | 文/静/三 | 半日で落城 |
2.西櫓にある解説板 | 平成8年2月 | 三 | 一日で落城 |
3.諏訪・駒形神社周辺にある解説板 | 平成12年3月 | 文/静/三 | 半日で落城 |
※(文)文化庁/(静)静岡県教育委員会/(三)三島市教育委員会
1と3は、設置年月が違うだけで、同じ内容でした。
(全て入力し終えてから、そのことに気付いた…)
H8年からH11年の間に、”一日”ではなく、”半日”で落城したことが新たに分かった、ということでしょうか。
三の丸
最初は三の丸。
『三の丸堀』
三の丸の曲輪(くるわ)の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。
城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝(うね)を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。
中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』三の丸解説板より)
ここは、二重の堀。
一つは排水のための、水路。
もう一つは、空堀。
田尻の池
『田尻の池』
東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。
しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。
築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』三の丸 解説板より)
山城では、何よりも水が貴重だったのですね。
城内、溜めておく工夫が随所に見られました。
分岐点。
迷うことなく、左の「西の丸跡」へ。
しかし、この「宗閑寺」(そうかんじ)。
後から分かったことですが、両軍の武将が眠るお寺だったのです。
看板の隅っこにでも、そのこと書いておいてくれたら行ったのになぁ~。
なんて自分の勉強不足を棚に上げてお願いばかり…
元西櫓
西の丸方面へ歩いて行くと、途中、「元西櫓」がありました。
「元」ということは、「新」があるということですよね。
ということは、どこかに「西櫓」もあるということなのかな。
『元西櫓下の堀』
城の内部に敵が侵入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。
掘り上げた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。
山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。
堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。
また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。
ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』元西櫓下の堀 解説板より)
ローム層?とはなんぞや。
『元西櫓』
この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた640平方メートルの小曲輪である。
当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
曲輪内は堀を掘った土を1メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。
この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。
しかもロームブロック層は溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』元西櫓 解説板より)
さきほどのローム層から、ここではロームブロックとな。
層だったり、ブロック(塊?)だったり。
すごく気になる。
が、正体は分からず。
西の丸
「○○の丸」の「丸」は、曲輪(平なところ)ということだと、いつかの勉強会で教えてもらったような。
山城だから、斜面を平らにするだけでも大変なことだったんだろうなぁ。
『土橋』
土橋(どばし)は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路として作られる。
この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上がり坂の通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。
この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』土橋 解説板より)
『西ノ丸畝堀』
西ノ丸内部に敵が侵入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。
山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、柔らかい泥土のある堀とに分けられる。
この堀の中は、五本の畝によって区画されている。
畝の高さは堀底から約2メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには9メートル近くもよじ登らなければならない。
遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時は滑りやすいローム層が露出しているものである。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』西ノ丸畝堀 解説板より)
ローム層=滑りやすい
一つ情報が手に入った。
↓来た道を振り返ってみた、畝堀。
西櫓
やっぱりあった。
「元・西櫓」ではない、「新・西櫓」の方に到着。
『掘立柱建物跡』
発掘調査の結果、南西の区画から掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)のものと思われる柱穴が20本検出した。
弓矢や鉄砲等を立て掛ける施設と思われるが、検出した柱穴は、柱間及び方向が不揃いで、どの柱穴がこの建物に伴うものか確定できないため、床面と思われる範囲についてのみ平面表示した。―平成27年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』掘立柱建物跡 解説板より)
『後北条氏の角馬出し』
戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」(うまだし)と呼んでいる。
馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれている。
西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。
防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。
この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。―平成16年3月 三島市教育委員会―
(『山中城』後北条氏の角馬出 解説板より)
西櫓が二つあったことから、西の丸を後で造ったことが推測できて、おもしろい。
「これって増築したってことだよね。おもしろいね~。」と店長に話したら、「普通は拡張って言うと思うんだけどね」。
共感得られず。
城用語、難しいな。
いや、店長に認められるの、難しい。
敵が入ってこられないよう畝堀・障子堀造るために、西の丸新たに造ったってことなのかな。
『西櫓の架橋』
西櫓の曲輪を囲む約82メートルの西櫓堀は、ほぼ9メートル間隔に作られた8本の畝によって、9区画に区切られている。
第9区画に隣接する一段高い平坦面から4本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。
日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』西櫓の架橋 解説板より)
曇りだったけど、いい眺めでした!
『障子堀』
後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を彫り残す、いわゆる「障子堀(しょうじぼり)」という独特の堀が掘られている。
西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪に向かって畝を山車、障子の桟(さん)のように区画されている。
また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。
このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』障子堀 解説板より)
真っ直ぐかと思ったら、微妙にずれてる。
夢中で駆け上ると、気づいた時には堀の中。
正に、「見える落とし穴」。
『西ノ丸堀』
西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。
西櫓と西ノ丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西の丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。
このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』西ノ丸堀 解説板より)
素朴な疑問。
”堀障子”と”障子堀”は同じことなのか?
立派な休憩所がありました。
一番の見所「障子堀」に別れを告げ、本丸方面へ。
「うわ!この土めっちゃ滑べるわ。」
(これって、滑りやすい=ローム層のそれ?)
そう言えば、西の丸行ってないよね?と気付き、急きょ階段を登り「西の丸」へ。
西の丸
危うくスルーするところでした。
西櫓見て、西の丸観た気になっていました。
『西の丸』
西の丸は3,400平方メートルの広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。―平成9年11月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』西の丸 解説板より)
きれいに手入れされた、「西の丸」。
広い。
無性にパターゴルフしたくなった。
『西の丸見張台』
西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。
発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。
標高は約580mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』西の丸見張台 解説板より)
ロームブロックと黒色土を交互に積む。
ということは、ロームブロック=土?石?。
また、一歩ロームに近づいたようで、霧は晴れない。
『土塁』
山中城のどの曲輪も土塁(どるい)で囲まれている。
石垣を使う以前の戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍等)によって土塁の構築が考えられた。
土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には緩やかである。
このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものでなく、土留(どどめ)程度のものである。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』土塁 解説板より)
『山中城の建物』
西の丸を全面発掘したが、建物の遺構は確認されなかった。
コの地の開墾耕作で撹乱された可能性が強く、もしあったとしても臨時の小屋程度のものであろう。
西櫓跡からは3m×2.6mの柱穴跡が、元西櫓跡からは5.4m×7mくらいの建物の柱穴跡が検出され、また平らな石等も確認されているので、掘立柱の茅葺きの物置程度の建物はあってであろう。
日常生活用具である炊事道具や椀類が出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったと考えられる。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』山中城の建物 解説板より)
溜池
西の丸を後にし、いざ本丸へ。
『溜池』
ここは溜池(貯水池)の跡である。
山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。
この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。
深さ4メートル以上発掘したが、地底には達しなかった。
山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。―平成12年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』溜池 解説板より)
貯水への異常な努力、か。
それほど、水の重要度が高かったんだなぁ。
二の丸
本丸の前に、二の丸がありました。
『二ノ丸虎口と架橋』
二ノ丸は東西に伸びる尾根を切って構築された曲輪である。
尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南方方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は傾斜となって箱井戸の谷に続いている。
この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。
二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を超えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていた。
また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。
橋脚の幅は南北4.3m,東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。
復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』二ノ丸虎口と架橋 解説板より)
本丸
『本丸堀と櫓台』
本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。
北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていrた。
堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。
なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。
土橋の南側は畝によって8区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。
堀底から本丸土塁までは9メートルもあり、深く急峻な堀である。
堀の二ノ丸側には、幅30~60センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。
一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。
説明板左手の、標高583メートルの地に西ノ丸櫓台(東西12メートル、南北10メートル)がありそれを復元した。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』本丸堀と櫓台 解説板より)
しころ?
調べると、首のまわりを守る装備(カブトの一部)のことだと分かりました。
分かったようで、まだピンときていませんが。
かなり急。
複雑な仕組み。
『本丸跡』
標高578m,面積1740平方メートル、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。
この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。
虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。―平成9年11月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』本丸跡 解説板より)
藤棚のところに、本丸広間があったようです。
どんな感じか、絵があったら見たいな。
北の丸
本丸から北の丸に架かる、木の橋。
『架橋』
発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。
山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。
木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』架橋 解説板より)
木は、土に較べ簡単に破壊できる、か。
そうか、敵が来た時のことを常に想定して、素材選びをしていたんだなぁ。
『北ノ丸跡』
標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920平方メートルとりっぱな曲輪である。
一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例すると言われている。
この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
調査の結果。この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。
また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』北ノ丸跡 解説板より)
『北の丸堀』
山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。
堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土塁が高く堅固なものとなる。
北の丸を囲むこの堀は豪快である。
400年の歳月は堀底を2m以上埋めているので、築城時は現在より更に要害を誇っていたに違いない。
城の内部に敵が侵攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のない空堀となっている。
石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いずこれだけの急な堀を構築した技術はみごとである。―平成9年11月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』北の丸堀 解説板より)
かなり深い空堀があったようです。
水はどれだけ深くても飛び込めるけれど、空ではそうはいきませんね。
かなりの急斜面。
天守
『天守櫓跡』
標高586m,天守櫓の名にふさわしく、山中城第一の高地に位置している。
天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。
基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50~70cmの高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。
天守台には、井楼(せいろう)、高櫓(たかやぐら)が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により撹乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。
本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、1m位の幅で作られていたものと推定される。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』天守櫓跡 解説板より)
『矢立の杉』(市指定天然記念物)
山中城跡本丸の天守櫓に接して植生しており、樹高31.5m、周囲の樹木より一段と高く山中城跡のシンボル的存在である。
推定樹齢は500年前後といわれ、植生地はスギの生育の適地であるため樹勢も良好で、目通り4.37m、枝張りは西側へ15m、北東側へ8mも展開し、各枝の葉色もよい。
「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと、『豆州志稿』の中の記述にある。―平成8年12月 三島市教育委員会―
(『山中城』矢立の杉 解説板より)
御年500歳!
このスギは、いろんな歴史を観てきているのだな。
兵糧庫跡
本丸から一段降たところから、全体をよく観ることができました。
『兵糧庫跡の柱穴と大きな穴』
発掘調査の結果、この西側の区画から約20個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。
これらの穴(ピット)のほとんどは、直径50cm、深さ20cm程度で、それぞれ2m~2.2m間隔の列をなしていた。
周辺より出土した、平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。
また西北隅、土塁寄りに直径1.5m,深さ2.5mの大きな穴が四基並列して検出された。
これらの大穴は建物の柱穴とはまったく正確のちがうもので、壁面は垂直に整形されており、底面は平で特に加工はほどこされていなかった。
なお、その用途については不明である。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』兵糧庫跡の柱穴と大きな穴 解説板より)
『兵糧庫跡』
ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。
中央を走る幅50cm、深さ20cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。
西側の区画からは南面する三間(6.7m)、四間(7.7m)の建物の柱穴が確認された。
このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。
東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯(すずり)・坏(つき)・甲冑片・陶器などが出土している。―平成13年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』兵糧庫跡 解説板より)
諏訪・駒形神社
城内に神社がありました。
『諏訪・駒形神社』
鎮座地 三島市山中新田40番地の1
御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと) 日本武命(やまとたけるのみこと)
例祭日 10月18日由緒
史跡山中城の本丸に守護神として祭られた。
建御名方命は、本国主名の御子神で、父神の国譲りに講義して、追われた信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。
後、転じて日本第一武神と仰がれる。
日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。
弟橘姫(おとたちばなひめ)の荒海鎮静の入海はこの時である。
山中城の落城(1590年)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。
『駒形諏訪神社の大カシ』(県指定天然記念物)
ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。
大カシ(アカガシ)は樹齢約500~600年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約400年前、天正18年(1590年)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。
根廻り9.6m、高さ28m、幹は地上4mのところで7本の主枝に分かれている。
空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内1・2の大木である。―平成8年12月 三島市教育委員会―
(『山中城』駒形諏訪神社の大カシ 解説板より)※県指定天然記念物に指定されていた「大かし」は、平成30年9月の台風20号の大風等の影響により、根本近くから倒れてしまいました。
よって、県指定天然記念物の指定が解除となりました。
県の天然記念物「大カシ」はどこだろう??
一生懸命探しましたが、見つからず。
それもそのはず、ちょうど一年前(2019年現在)の台風で、大カシは倒れてしまったんですね・・・。
切り株だけが、残っていました。
鳥居をくぐり、県道1号線を歩いて駐車場へ向かいました。
途中、石碑が建っていました。
国道1号線からも戦死した武将が眠る、「宗閑寺」へ行けたようですが、気が付いたらスタート地点の駐車場へ着いてしまいました。
さて次は、国道1号線を境に、反対側の岱崎出丸(地図の赤丸)に向かいます。
階段を上って暫く歩くと、二手に分かれる箇所があります。
ここで間違った選択をしてしまいました。
奥の「すり鉢曲輪」から行こうと、手前にある「御馬場」を後回しにしました。
しかし、帰り道には、御馬場跡に行ける道が見当たらなかったのです。
素直に、手前の御馬場跡から行けば良かったと後悔。
出丸御馬場堀
『出丸御馬場堀』(でまるおんばばほり)
堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。
畝の高さは、堀底から約2m、頂部の幅0.6m馬の背のように丸みを帯び、堀をさえぎるように堀の方向に直角に造り出し、ローム層を第刑に掘り残して作られたものである。
畝の傾斜度は50度~60度の急峻で、平均した堀底は約2m、堀底から曲輪までの高さは、平均9mにも及ぶ。―平成9年11月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』出丸御馬場堀 解説板より)
構築途中の曲輪跡
『構築途中の曲輪跡』
東側(説明板の右手)は御馬場曲輪西堀の堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。
遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。
しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。
ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』構築途中の曲輪跡 解説板より)
折角、構築途中の様子を再現してくれているのに、どこのことだかよく分からず…。
↓多分この辺かな?という、ぼんやりとしたショットです。
岱崎出丸
『岱崎出丸』
この地は、標高547m~557m、面積2万400平方メートルにおよぶ広い曲輪である。
地名の岱崎(だいさき)をとり、岱崎城とよばれることもある。
天正17年(1589年)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めたが、短期間のため完成できず、中途で放棄したようすが、発掘の結果諸所にあらわれたのも興味深いことである。
この出丸を守ったのは、副将間宮豊前守康俊(まみやぶぜんのかみやすとし)といわれ、壮絶な戦闘をくりひろげ全員が討死したと伝えられている。
その墓は三の丸にある宗閑寺に苔むして建てられており、訪れる人の涙をさそっている。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』岱崎出丸 解説板より)
この岱崎出丸は、完成することなく、戦いが始まってしまったのですね。
すり鉢曲輪跡
『すり鉢曲輪』
山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。
そのためか、曲輪の構築方法も、本丸側の曲輪とはまったく異なり、中央部を凹ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。
上方から見たようすが、すり鉢によくにているところから通称「すり鉢ぐるわ」とよんでいる。
このくるわへの虎口(入り口)は南につくられているが、更に東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が、作られており、防備のための「武者だまり」と推定されている。―平成11年3月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』すり鉢曲輪 解説板より)
いまいち大きさが分かりづらいですが、
降り立ってみると、大きなすり鉢の中に入り込んだ一粒の胡麻の如く、スケールの大きさを体感できました。
すり鉢曲輪に、今まで大勢の登城者が通った跡が、道となっていました。
すごい。
すり鉢曲輪の垣根の間を行くと、すぐ見張台があります。
『すり鉢曲輪見張台』
出丸の先端に位置するこの見張台は土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。
すり鉢曲輪南側の樹木を低くすることにより、三島・沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。
見張台直下北側の平坦な部分が堀の跡で未調査ではあるが、試掘の結果、非常に傾斜角が強く、この堀底から見張台までは8m以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』すり鉢曲輪見張台 解説板より)
階段を上がると・・・
一の堀
このウネボリ!!
遠くの街も、よく見えました。
『岱崎出丸 一の堀』
第9次発掘調査(昭和56年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。
第9次調査では、指定地内の約150mの間に、17箇所の畝を確認することができた。
完掘された一の堀の第3区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもってたちあがっている。
したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18~20m前後の急峻な勾配がつくわけである。―平成8年12月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』岱崎出丸 一の堀 解説板より)
御馬場北堀
『御馬場北堀』
御馬場(おんばば)の西側に構築された深い堀は、南は来光川上流に開いているが、北の部分はここの帯曲輪で堀留めとなっている。
この西堀と対をなすかのように、堀の上幅8mの北堀が発掘の結果検出された。
この堀は北にのび、すり鉢曲輪から出丸の中腹をめぐる堀と直交するのではないかと推定される。
北堀の復元については、未調査部分の中腹の堀が調査されてから検討することになっており、今回の整備では堀の位置だけ示すにとどめた。
いずれにしろ御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようとする戦略上の意図が察知できる堀である。―平成9年11月 文化庁/静岡県教育委員会/三島市教育委員会―
(『山中城』御馬場北堀 解説板より)
山中城とても広かった。
下調べ、登城、写真まとめ、ブログと、じっくり堪能することができました。
次回は、今回行きそびれてしまった、武将が眠る「宗閑寺」へも、是非行ってみたいと思います。
何だこれシリーズ
西の丸~本丸道中
北の丸
またあった、土の掘り返し。
もぐらと目があったらどうしようと、ドキドキしたが、何も出てこず。
二の丸
この草、調べてみても何という名前か分からない。
何となく剣みたいな槍みたいな。
クリオネにも見えるなぁと思い、「草 クリオネ」で検索してもヒットなし。
地形図
+プラスのカーソル位置がおおよその所在地です。
お城情報
名称
山中城(やまなかじょう)
城地種類
山城
築城年代
永禄年間(1558~1570年)頃
築城者
北条氏康
主な城主
後北条氏
遺構
障子堀、畝堀、堀切、土塁、曲輪
所在地
〒411-0011 静岡県三島市山中新田410-4
電話
055-985-2970(山中城跡案内所・売店)
開城時間
年中無休
休城日
なし
入城料
無料
スタンプ設置場所
山中城跡売店前
アクセス・駐車場
【駐車場】山中城跡売店 無料(9:00~17:00)
※私たちが見学した時の情報です。
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