2020年2月23日(日)
小雨ときどき突風。
荒れた天候の中、愛知県新城市にある宇利城址へ行ってきました。
松平清康の叔父、安城市福釜(ふかま)の松平右京亮親盛(ちかもり)親子最期の地でもあります。
清康にとって、相当信頼をおいていた叔父だったようで、その右京亮親盛の苦戦を助けなかった安城桜井の松平内膳正定信(親盛の弟)である叔父を、皆の前で叱ったとか。
これがもとで、その後の松平家はどんどんこじれていってしまうようです。
見学記録
駐車場から城跡への道のり
「中宇利」(なかうり)の交差点の角に駐車場があります。
乗用車スペースに加え、バス専用駐車場も。
道案内図にもあるように、至る所に城跡までの矢印看板があります。
さぁ、歩いて向かいましょう。
まずは宇利川の橋を渡ります。
見えてきました、宇利城址の山が。
(そんなに険しくなさそうだな)
これから待ち受けている山の恐ろしさを、この時はまだ知らなかった。
愛知県指定文化財
(史跡) 宇利城跡
昭和32年(1957年)9月6日指定
新城市中宇利字仁田宇利城は連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~1487年)に今川方の熊谷重実が築城し、松平清康の侵攻によって享禄2年(1529年)に落城した。その後、天文14年(1545年)に今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城した。永禄11年(1568年)家康側に寝返った近藤氏は、武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといい、その後の宇利城の状況は定かではない。
家康期に城郭の改修があったと考えられるが詳細は不明であり、現在は山上に主郭(本丸)、姫御殿と呼ばれる二ノ丸などの曲輪、土塁、堀(横堀、堀切)などの遺構が残る。「宇利の戦い」(概略)
東三河は今川市の勢力範囲であったが氏輝の代になるとその力も失われ、清康はこの機に東三河を手に入れようとした。
享禄2年(1529年)11月4日、三河平定を目指す松平清康は三千余りの軍勢を率いて、宇利城を攻めた。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などをそれぞれ従えたが、宇利城主の熊谷実長は今川氏との盟約を固守したためであった。
城郭の前面や側面が沼田で、裏手を山で囲まれた天然の要塞であった宇利城での戦況は熾烈を極めた。この時、城の大手で松平右京亮親盛(清康の叔父)が討死した。
清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城にひをつけたので城主実長は裏山伝いに落ちのび、ついに落城した。―新城市教育委員会―
登城をなめるべからず
駐車場から歩いて約10分。
用水路沿いの細い道を歩いて、宇利城のある山の中へ。
山に入ってしまえば雨はあたらず、ひとまずホッ。
松平右京亮の墓
宇利の戦いで、松平右京亮親盛が戦死した場所。
大手門辺りです。
合掌
本丸
時計に目をやると、駐車場から丁度30分。
本丸に到着。
愛知県指定史跡
宇利城跡
宇利の戦い享禄3年(1530年)11月4日、松平清康は3千余りの軍勢を率いて、東三河をめざし岡崎を出発した。東三河は今川市の勢力範囲であったが、氏輝の代になるとその力も失われてきた。
清康はこの機に東三河を手に入れようとした。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などの城主は清康に従ったが、宇利城主熊谷重実はなかなか従わないので、宇利城へ向けて攻撃をはじめた。
野田城主菅沼定則を案内として、東上(一宮町)で豊川を渡り、八名井の今水寺で休息し、宇利に向かった。城の大手には松平右京亮親盛(清康の叔父)、松平内膳正定信(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の奥平貞勝が先導した。この戦いで城方370名、松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮が討死した。
宇利城は三方を山に囲まれた天然の要害で清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いにおちのびていった。平成7年1月 ―新城市教育委員会―
(「宇利城」跡解説板より)
あれ?山のふもとにあった解説板では宇利の戦い享禄2年(1529年)となっていた。
どっちが本当だろう?
曲輪に井戸や堀、石垣などもあり、見どころ満載。
清康が攻め入った搦手(からめて)は、本丸の左手にありますが険しくて行けませんでした。
熊谷備中守實長碑
實長って誰だろう?と思っていたら、【實】という漢字は、今でいう【実】でした。
なので、清康と戦った宇利城主の熊谷実長のことですね。
ちなみに父の重実が築城者です。
本日のベストビュー!
納所平(なんどたいら)
ここを降りていかないと、納所平へは行けないなんて…。
こんな崖みたいなところは、私には到底無理ですな。
店長は山の子如く、颯爽と木々の中に消えていきました。
本丸と納所平の間の堀。
姫御殿(二の丸)
二の丸には姫御殿跡がありました。
ここから6段の腰郭があり、その先に御馬平の曲輪があります。
井戸
写真を撮っていた時は、「わ~凄い!深~い」と感動したのですが、写真で見返すと井戸感ゼロ…。
この井戸には、戦いに敗れ逃げる時に投げ入れた金の茶釜があるとか。
出てきたらと思うとゾクゾクしちゃいます。
石垣
渋い!
当時の石垣が残っていました。
道中、細い道や山の傾斜に何度か挫けそうになりましたが、この石垣を見て恐怖が一気に吹き飛びました。
ゴツゴツ感がたまりません。
生い茂っていたシダ植物の下には、多くの石垣が眠っているのでしょう。
くるくるして面白い。
私の頭も目もクラクラしてきました。
御馬平(おんまだいら)
御馬平へ行く道は二通りあり、こちらの道からは私には無理という店長の判断で、もう一つの道から行くことに。
しばらく本線を降りていくと、分岐点に着きました。
立派な案内板のこちらの道からなら、へなちょこ副店長でも大丈夫ということです。
へなちょこは余分。
腰が引けても、慌てない慌てない、ゆっくりゆっくり。
恐怖のあまり意味不明な言葉を発していたようですが、その御蔭で猪や熊にも会わず、何とか御馬平に到着。
おや?ここでは御馬(屋)平と書かれていますね。
木の中に、カミヤの文字発見。
カミヤさんの土地?
木に名前が書いてあるの初めて見ましたが、どういう意味があるのだろう。
帰り道で遭遇!?
御馬平から本線の道に出てからは、もう安心。
と思った矢先転んだり、怪我したりなんてこともよくある私。
”家に帰るまでが史跡めぐり””百里を行く者は九十里を半ばとす”
いつも心の中で唱えています。
根っこ?
縦長でおもしろい。
ギャー!!骨!
私には、こう見えた。
「猪が通った跡があるな」
とつぶやきながら、スタスタ下山する店長。
かなりの登山レベルにギブアップ寸前でしたが、約2時間の戦国タイムスリップ 堪能しました。
地形図
お城情報
名称
宇利城(うりじょう)
城地種類
山城
築城年代
文明年間(1469~1487年)
築城者
熊谷重実
主な城主
熊谷実長、菅沼定則、近藤氏
遺構
曲輪、土塁、堀、井戸、石垣
所在地
愛知県新城市中宇利仁田
開城時間・休城日・入城料
該当なし
本日出会った人数
0人
アクセス・駐車場
【駐車場】宇利城跡駐車場=中宇利の信号交差点の一角(約20台、バスも可)
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。