目次
見学記録
2019年4月20日(土)
大高城(今川方)と、それを睨むようにあった2つの砦(織田方)。
今回は、「名古屋おもてなし武将隊」初代講師の戦国史跡ナビゲーター 七種英康先生に案内していただきました。
兵糧入れって?
鷲津砦と丸根砦を巡ってから、ここ大高城跡へ来ました。
松平元康(のちの徳川家康)が兵糧入れに成功したことで有名なお城なんですって。
兵糧ってお米とかの食料ですよね。
それを届けることが、どうして成功したと褒められるんだろうと、ここを巡った時には思っていました。
SUGIURA
店長
いやいや、周りに敵がわんさか中で、味方の飢えてる城にご飯を届けたんだよ!
いや~そんなこととは知らず。元康すごいです。
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坂道はありますが、それほどきつくはありません。
大高城跡(クリックして詳細を見る)
(指定地面積 40,613平方メートル)
知多半島の脊梁山地の末端近くに、西側が開けた丘陵上に築かれた東西約106m、南北約32mの山城である。室町時代、永正年間(1504~1521年)に花井備中守によって築かれたものと伝えられる。
戦国時代、天文・弘治年間(1532~1558年)の頃には、永野忠氏父子が居城していたが、はじめ今川氏に属し、後に織田氏についたため、今川方の鳴海城主山口左馬之助に攻められ、今川義元の家臣鵜殿長照が入った。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いのときに、松平元康(徳川家康)が織田方の包囲の中を兵糧の運び入れに成功し、そのまま城を守った。
元康は義元が討たれ、今川方が敗走するまでいて、今川方撤退後に父祖の城である岡崎城に入った。
大高城は戦略上の価値を失い廃城となったが、元和2年(1616年)尾張藩家老清水忠宗が城跡に館を構えたが、明治3年に廃止された。
現在は、本丸・二の丸とこれを分ける内堀が良く残っているが、外堀土塁などは急斜面の地形を安全上の理由から改変し、昔の面影は薄い。
丸根・鷲津の両砦とともに昭和13年国の史跡に指定された。
名古屋市教育委員会
こういう碑を見ると、さぁいよいよだな、と気持ちも高ぶります。
二の丸
坂道を登って、右側を見ると、原っぱが広がっていて、とても気持ちのいい二の丸。
反対、左側へ目をやると、大高の町が一望できます。
織田方の鷲津砦と丸根砦が、遠くに見えました!
お互い睨み合っていたんですね~!(ΦωΦ)
そうそう。
この簡易トイレ。
ここは国の史跡なので、届け出をして受理されないと草も勝手に刈ってはいけないんですって。
なので、トイレなんてもちろん勝手に作れない。
ということで、すぐに撤去できるよう、簡易トイレが置かれているそうです。
昔には勿論トイレなんて無いわけですが、今登城する私達にとっては、こうした気遣いありがたいですよね。
さて、お次は本丸へ。
本丸
進行方向に向かって右側。
案内か地図がなければ分からないような道をいきます。
本丸があったところは、今は草や木に覆われています。
あ、こちらの方が、七種先生です。
八幡宮
武士のみが参拝できた八幡社。
村人は町にある八幡社。
身分によって、分けられていたなんて驚きです。
今日は、自分が武士になった気分で参拝。(-人-)
城山八幡社(クリックして詳細を見る)
由緒書によれば、大高城主花井備中守が鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊し、ここと字町屋川の二箇所に祀りました。
その時期は明確ではありませんが、1500年代初頭と考えられています。
江戸時代までここは武士のみが参詣でき村人は町屋川の八幡所を詣ることになっていました。
今この神社は本町地区町内会により維持管理され、毎年9月および年越しには住民の幸福を願い、祭事が執り行われています。
神前には寛大10年(1670年)にこの城跡に屋鋪(やしき)を構えていた志水忠時の寄進による石灯籠一対が名残を留めています。
脇の手の水鉢は、天保8年(1837年)村の有力者山口源兵衛が寄進したものです。
大高歴史の会
ちょっと寄り道
場所は変わり、村人のための八幡社がこちら。
由緒書(クリックして詳細を見る)
社伝や原田家(ご鎮座以来明治の半ばまで長らく社職として奉仕)記録等によりますと、治承4年(1180年)源頼朝が鶴岡八幡宮のご分霊を勘請、相模国小林郷丸山にご鎮座、その後大高城主花井備中守がこれを大高の里へ遷され、現在のご鎮座地と城山(大高城址のある地)の両地に祀られました。
この大高に遷し祀られた年代については明らかではありませんが、鎌倉時代の初期西暦1200年頃と思われます。
文明年間(1469年~1486年)に水野和泉守が城主となりその子大膳等が田地30貫文を当社へ寄付されましたが、やがて天正年間にこの田地等は豊臣氏の手に渡ったようであります。
徳川家康が桶狭間合戦の行われた永禄3年(1560年)の前に今川義元の命を受け兵粮が欠乏していた大高城(当時今川方)への兵粮入れを成功させたことは大高城の兵粮入れとして古来有名ですが、この家康は永禄4年(1561年)20歳のとき、当社に参詣ご祈祷をされています。
右のように当八幡社は極めて由緒のある歴史をもたれ、従って当大高町においても氷上姉子神社に次ぐ名社として古来町民の尊崇厚く、大正3年に拝殿、渡殿、鳥居、手水舎等を新築、昭和56年には本殿改築、平成11年には社務所の改築を行い平成14年に拝殿を新築し境内を整備しご社頭はいよいよ栄、今日に至っております。
平成25年5月9日 八幡社
話を大高城に戻しましょう。
鳥居を出て、二の丸に戻ります。
三の丸に行くには、この土橋を通ります。
このような橋が残っていることも貴重なのかもしれません。
土橋の両端に人が立つと、長さや大きさもよくわかりますね。
三の丸
三の丸も二の丸同様、とても広かったです。
なんとなくのどかな風景が広がっていました。
町へ目をやると、小高いことろに建っていたことがわかります。
空堀
いよいよ空堀を見に行くわけですが、三の丸の奥のとっても狭い坂道を下っていきます。
案内がなければ、私だったら分からず帰っていますね。
一見入ってはいけないような感じがしますが、大丈夫。
ここから薄暗い木の中へ入って行くと・・・
THE 空堀!
この雰囲気は写真では伝えきれず。
ぜひ現地でお確かめください。
お城好きの皆さんの話に耳を傾けながら、帰路につきました。
おまけ
大高城から八幡社へ向かう道中、神の井酒蔵さんがありました。
日本酒好きの私は、こちらもまた魅力的。
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地形図
お城情報
名称
大高城跡
城地種類
平山城
築城年代
永正年間(1504年~1521年)か?
築城者
花井備中守
主な城主
花井備中守、水野忠氏、鵜殿長照、清水忠宗
遺構
本丸、二の丸、三の丸、土橋、空堀、八幡宮
所在地
〒459-8001 愛知県名古屋市緑区大高町城山
電話
052-625-3878(緑区観光推進協議会事務局)
開城時間・休城日・入城料
該当なし
アクセス・駐車場
【電車】:JR大高駅より南西へ徒歩約10分
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。