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大高道|桶狭間合戦で松平元康(のちの徳川家康)が兵糧入れしたルートを歩いてみた|愛知県豊明市

織田信長と今川義元の戦いと言えば、桶狭間おけはざま 合戦です。
その戦の最中、今川側にいた19歳の松平元康もとやす (のちの徳川家康)が、味方の居る大高城兵糧ひょうろう(食糧)を運び入れる際に通ったとされる、大高道おおだかみちを歩いてみました。
当時の面影はありませんが、ルートとしては7割程残っているということですから、時空を超え元康と共に兵糧入れルートを歩くことができます。
ただのデリバリーではありません。
丸根とりでや鷲津砦には、敵方の織田軍がわんさか居ます。
見つからず無事兵糧入れを敢行できるか!妄想力も鍛えられそうです。

目次

大高道マップ

まずは、桶狭間神明社の南側にある案内板をチェック。

大高道(桶狭間合戦時、元康が兵糧入れした際使ったとされる道)

大高道

大高道は、大脇村~桶狭間村~大高村を結ぶ道で、東海道が無かった戦国時代は三河と尾張を結ぶ主要なルートの一部でした。

桶狭間の戦いの時、今川義元は、輿に乗って沓掛城から東浦街道を南に下り、大脇村から大高道を進み、桶狭間村内の近崎道を経由しておけはざま山の本陣に入りました。

また、今川義元の命で松平元康(徳川家康)は、この大高道を通り大高城への兵糧入れを敢行し、無事成功させました。

桶狭間から大高城跡に至る道(約4.5km)には、当時の面影を残す古道も残っており、丸根砦跡、鷲津砦跡、大高城跡への探訪と合わせ魅力的な散策コースです。

大高道図解説版より

桶狭間神明社

御祭神 天照大御神

桶狭間の里は、1340年代南朝の落武者によって拓かれたと伝えられております。
当社はその人達の村づくりの中で心の拠り所として創建され、寛文村々覚書には1608年(慶長13年)既にこの広い社に奉祀されていたことが記されています。
桶狭間の戦いの時、今川先発隊の瀬名氏俊が武運を祈願し奉献したと言われる酒桶があります。
また、1710年頃(宝永年間)尾張四代藩主徳川吉通が知多巡覧の折り参拝しており、その時植樹されたを社殿正面に神木(枯木)として残しています。
社殿は、1753年(宝暦3年)に造営され、現在の社殿は1935年(昭和10年)に改築されたものです。
また、明治10年の一村一社令にて、境内には13の末社が祀られております。

大高道図解説版より

明治に一村一社令というのがあったんですね。
さて、大高道図の◎現在地からスタートし、ゴールの大高城跡を目指しましょう。

桶狭間神明社の西側出入口から北西に伸びる大高道

道路の赤いラインは、今回私が歩いた大高道を表しています。

ここで、公に出ている定説ルートではない道を選択!なぜ?

文久山という地域で、定説ではないルートを選びました。
その理由が、古地図にあります。
時系列地形図閲覧サイト【今昔マップ on the web】で確認してみました。
掲載されている中で一番古い時代の1888~1898年マップを観ると、確かに定説ルートではない左側の道しか確認できません
私が愛用している【古地図散歩】アプリで1900年頃を確認しても、左側の道しか見当たりませんでした。
なので、今回は定説ではない左側道ルートを選択。
しかし、ここで一つ疑問が。

かつて地図にはない道を、あえて定説ルートとしたのはなぜ?

1888~1898年マップに記載される前は、実は道があったのか?
謎は深まるばかりです。

実際にはまっすぐ道なりに進んでいきたいところですが、国道302号線の影響で迂回しなければなりません。

このように壁があっては進めません。
国道302号線の【殿山】という信号の横断歩道を渡ります。

【殿山】を過ぎ、保育園や緑ヶ丘自動車学校の脇を通ります。

近代的な道路や建物に囲まれながら歩いていると、荒々しく土がむき出しになった場所が嬉しく感じるおもしろさ。

通りを横断すると、少し登りです。

道を挟んだ両側の家の高さを比べると、高低差から山の斜面を通っていることが分かります。

この道も、東にいかにも街道っぽい道があるのですが、古地図で確認すると、こちらに軍配が上がりました。

急に開けた場所に出たと思ったら、大高緑地の恐竜広場の辺りでした。
大高緑地公園はとても広く、自然も豊かな場所です。

おっと!前方(北方向)に丸根砦が見えます。
この距離では、さすがに兵糧入れは見つかってしまうか…?!
元康兵糧入れルートの最後は、大高道を離れ脇道を使って大高城へ入ったのでは?という見解もあるようです。

そして、こちらの交差点の名前が【砦前】。まさに!
本来の大高道は北上し線路をまたぐラインのようですが、消滅区間で通り道がないようなので迂回ルートをとります。

【砦前】交差点を100m程南下すると、新幹線が通る高架下があるので、そこをくぐります。

大きなマンションが立ち並ぶ景観。
本当にこんな都会的なところに大高城はあるのか?と疑いたくなるくらいです。

マンションの隙間から、丸根砦が見えました。

津島社・天満社の前を北へ進むと、先方にこんもり小高くなっているところが見えます。
大高川が流れているようです。
大高城近くでは、大高川の外側を大高道が通っていたという指摘もあるようですが、真相はどうなのでしょうか。

そして、この辺りから消滅していた大高道が復活です。
津島社・天満社を左手に西に向かいます。

曲がっている道は、街道の雰囲気出ていて良いですね。

ここからの大高城の景観は、一見の価値あり!

大高善光寺と、海岸寺、地図で確認するとお寺さんが二つあるようです。
その向こうに見えるのが、大高城跡です。
史跡巡りをされている団体さんでしょうか。
人の姿も肉眼で確認できる距離です。

大高は宿場町ではないですが、とても賑わっていた場所だったようです。
こちらは曲尺手かねんて でしょうか。
宿場町ではなくても、わざわざ道を曲げて用心していたのかもしれません。

大高城へ無事到着!
二の丸辺りは、メルヘンでのどかな雰囲気すらします。

大高城跡は土橋や空堀など、こじんまりしていながらも見応え十分。
手作業でつくった空堀、今でも5m位はありそうですが、当時はもっと傾斜もあり深さもあったことでしょう。

アップダウンのある立地を、馬を使って兵糧を運び入れたのか?
兵糧はどこから運んで来たのか?
気になることが次から次へと出てきます。

元康が通ったとされる大高道、一見地味でマニアック?
いえいえ、っ最高でした!
次回は、大高道全行程(約10km)に挑戦しよう♪

地図

大高道図のある場所

兵糧入れした大高城跡

大高道(桶狭間合戦時、元康が兵糧入れした際使ったとされる道)

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この記事を書いた人

歴史初心者だからこそ気になるポイント、初めて出会う感動、少しずつ理解が深まる喜びなどを、私目線で気ままにつぶやいてます♪

三河生まれ尾張在住
好きなことばは『三河武士』
ディライト・グッズ副店長 & Web屋助手

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