見学記録
全国的には知名度は高くない岩倉街道ですが、あの徳川家康が絡んでいる岩倉街道です。
日本三大市場はどこか?なんてテストで出るかもしれませんね。
歩きながら、じっくりその謎を紐解いていくことにしましょう。
前半の巻(清須市~名古屋市西区~北名古屋市)
愛知県の名古屋市と清須市の間を流れる庄内川。
かつて、この辺りで川を渡れる唯一の橋が、この枇杷島橋。
とても貴重な場所だったようです。
今では、少し西側に新たな枇杷島橋が掛かっていますが、昔は中洲があり、そこを中間点として2つの橋が掛かっていたようです。
美濃路と合流するこの橋の西詰が、岩倉街道の始点です。
「西枇杷島町橋詰」という地名が、この辺りに残っています。
前置きが長くなりましたが、さぁ、ここ清須(枇杷島)から岩倉方面目指してあるきましょう!
と思った矢先、気になる人発見!
降りていってみましょう。
なんとこの人、自分と同じくらいの大きさの大根を担いでいますよ!
美濃路道標
一、美濃路は江戸時代、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として発達しました。
当時、旅をするのに道標や一里塚はなくてはならないものでした。一、道標には次のように彫られています。
東 にしハつし満てん王うきよす宿みち
西 飛がしハとうかゐだうなごや道
南 文政10年丁亥7月吉日
北 いわくら道一、この道標は文政10年(1827年)旧枇杷島橋小橋のたもとに建てられたものです。
平成20年3月 清須市教育委員会
交通の要地であった当時の歴史を物語る大切な道標です。
ここが美濃路と岩倉街道の分岐点だったことが分かりました。
しかし、一里塚とは何でしょうか?
調べると、一里(約4km)ごとに設置された塚ということらしく、目印となる木などが植えられていたようです。
昔は、今より見通しも良く、通行人の目標となっていたんでしょうね。
道標の案内板の他に、大根を持った人の像の由来についても書いてありました。
大根を持った人の像の由来
この地は慶長年間(1596~1614年)、徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。
その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。
昭和30年に移転するまでの約300年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。
家康からのお墨付きの市場として、栄えていったんですね。
慶長年間、家康70歳近くの話のようです。
この辺りにあった青物市(枇杷島市場)は、今の豊山町の北部市場の前身でもあるということも、調べていく中で分かりました。
少し歩くと、名鉄の線路の脇に、倉庫がありました。
背が高いです。
と、言うことは…
山車蔵 王義之車
山車蔵 王義之車
美濃路まちづくり推進協議会 案内板より
ここ橋詰町は、昔「橋詰横町」とも呼ばれ、枇杷島橋から美濃路と分かれ、岩倉街道沿いに店が立ち並び、青物市場を問屋町と共に支えた町であるが、堤防改修で今や跡形もない。
この山車が「王羲之車」と呼ばれるのは、大将人形が中国の高名な書家「王羲之」にちなむむのである。
人形からくりは西枇杷島町の他の四輌が、糸からくりであるのに対して、この一輌のみ差し金で操作する離れからくりである。
小唐子が大唐子の右肩に飛び移り、逆立ちをして大唐子の団扇太鼓をばちで打つという場面が見せ場である。
1802年作の山車である。
この山車が見られるのは、『尾張西枇杷島まつり』。
毎年6月の第1土・日曜日に開催されているようで、江戸時代から続く伝統的なお祭りのようです。
からくりの山車、近くで見てみたいです。
踏切を渡る時に、この景色に圧倒されました!
線路なのは分かっているんですが、人生の岐路に立たされているような不思議な感覚。
しかし、今日の我々は、このどちらも選びません。
岩倉街道まっしぐらです!
ジャンジャンジャ~ン♬あ~ぁ~
堤防沿いを歩いていると、ギターの弾き語り青年。
素敵なBGMをありがとう♪
道中、祠が時々見受けられます。
道行く人々を、守ってくれているようです。
どんなお城だったかは分かりませんが、小田井城がこんな風に見えたのかなぁ。
(↓わたしの脳内再生画像)
22号線沿いの『古城』という交差点名が、その小田井城跡を唯一示してくれています。
今では、22号という大きな道路が走っています。
地中では、今か今かと発見される日を夢見る史跡たちが眠っているのかも。
♬~サックスの練習をしていた紳士。
この庄内川沿いは、いろんな音が漂っていて、とてもいい気分。
猫たちも、音色に誘われてお昼寝?
赤とんぼ橋と並行している下の道路(国道22号線)は、歩行者横断道路がありません。
なので、道路の下をくぐってきたというわけです。
サックス紳士と猫にも会えたので、ラッキーでした。
少し歩くと、分岐点があります。
走っている人に付いていきそうになりましたが、左を行きます。
(あ~テトラポットひだり~に~♪)
なんて歌っていたら、蝶のような葉を発見。
堤防とも、そろそろお別れ。
看板には載っていない道を行きます。
ドッグランや庄内緑地公園を右手に、下へ降りていく左側の道を行きます。
密集した家々に期待感も上がります。
地図 ①
この辺りから、名古屋市西区に入ります。
何となく昔の造りの家も見受けられ、雰囲気があります。
おや?右手に何か見えてきました。
五所社?
どんなところでしょうか。
少しおじゃましてみましょう。
なかなか歴史を感じさせる、雰囲気のある場所です。
どことなく神秘的な気を感じます。
なるほど!
5つ祀られているから、五所社と言うのか!
と思って写真を撮ったんですが、帰ってから解説板をじっくり見ると、
- 八幡社(白山社)
- 神明社
- 天神社
- 愛宕社
- 熊野社
の五社を祀っているので五所社と言われているようです。
本殿の中にいらっしゃるのかな。
ここでお参りしたら、一石十鳥くらいご利益ありそう。
名古屋市中小田井町並み保存地区
小田井村は、寺に伝わる創建の時代により、9世紀にはすでにあったと推定される。
昭和63年3月31日 名古屋市教育委員会
寛文7年(1667年)名古屋城下から岩倉へ至る「岩倉街道」が通じ、枇杷島の青物市への搬送路としてにぎわい、青物市の帰りに味噌・油などの生活用品を購入したという。
このことにより、街道沿いに商家の立ち並ぶ町が形成された。
現在の建物はそのほとんどが明治24年濃尾地震以降のものである。
商家が中心であったため、広い敷地を有しながら、建物が街道に直接面しており、平入り中2階建で連子格子つきの家が多い。
また小田井の歴史には、「宝暦の洪水」(宝暦7年1757年)を始め、たびたび洪水に悩まされた。
このため高い石積み基礎の上に土蔵を築いたり、水屋を設け洪水への対策をたてていた。
地区周辺には由緒ある寺社も多く、歴史と結びつたい固有の景観と古い地割を残すヒューマンスケールの町並みである。
名古屋市は中小田井を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物および町並み保存上必要な物件を定め、修理・修景工事補助事業を進めている。
街道の起点にあった青物市場に野菜を運び、帰路はこちらの小田井村で、味噌や油、生活用品を買ったんですね。
案内板の右下に載っている名所図会。
あれ?
見たことある人が!
岩倉街道の起点にいた、あの大根かついでた人!
あの像は、この絵をモチーフにしていたんだ。
予期せぬ再会、ちょっと嬉しい♡
北へ1分ほど歩いたところに、こちらもまた歴史のありそうな神社。
と思ったら、『善光寺別院 願王寺』と石碑にあるので、お寺。
鳥居があるから神社かなと…。
頭の中、少し混乱気味。
善光寺ってあの長野の善光寺が有名ですが、関係あるのか調べてみました。
すると、全国に広がった善光寺信仰の寺院は、なんと443箇所もあるとのこと!
その一つが、こちらの願王寺さんなのですね。
善光寺サミットという集いもあるみたいです。
至るところに、立葵の紋。
長野の善光寺と同じ紋です。
モダンな本堂。
石に紋が彫られてたので、近づいてみると…
3つのモチーフが重なってるように見える。
なんだろう。鈴?
すごく気になるけど、う~ん、わからない…。
井桁に桜?
善光寺さんを出ると、一気にタイムスリップ。
黒い壁がいい味を出しています。
中小田井駅の高架下まで来ました。
名鉄中小田井駅
写真は昭和54年に北から南に向かって名鉄中小田井駅を撮影したものです。
写真奥に見えるホームが中小田井駅です。中小田井駅は、名鉄犬山線開業と同日の大正元年8月6日に開駅し、名古屋市の中心部にアクセスできる山田村(山田地区)唯一の駅として利用されてきました。
昭和49年9月17日からは住民からの強い要望もあって準急列車が停車することとなり、これにより1日の停車本数が約2倍となったことで、中小田井駅の乗降客は大幅に増加しました。平成3年に交通の円滑化と安全をはかるため、名鉄犬山線の中小田井・上小田井間が高架化されました。
これに伴い、上小田井駅はその前身にあたる平田橋駅から現在の位置に移転し、名駅・地下鉄の相互乗り入れが実現されました。
これにより上小田井駅の利便性が高まり、上小田井駅の利用者は年間で1000万人を超えました。
その一方で、相対的な利便性が低下することとなった中小田井駅は、利用者が減少することとなりました。中小田井駅の東側を通る岩倉街道は、名古屋城下から中小田井を通って岩倉へ至る街道で、かつては、岩倉村やその周辺から枇杷島の青物市へ野菜類を運ぶ道としてにぎわっていました。
岩倉街道は、町家、土蔵、長屋等の歴史的建造物が残っており、二階建て平屋建・中二階建と軒高が交互に変化した町並みが保存されています。現在の中小田井駅は、岩倉街道の最寄り駅として今も昔も変わらず人々の暮らしを見守っています。
名古屋市西区役所 案内板
小田井は、上・中・下の3つに分かれており、それぞれの名前の名鉄駅が存在しています。
中小田井駅をくぐって、真っ直ぐな道を行きます。
地図 ②
あ!
この交差点知ってる!
「大木曽」という交差点。
近くに上小田井駅や、mozoという大きなショッピングセンターがあるので、とても交通量の多いところ。
まさか、ここに繋がっていたなんて、驚きです。
今日一番の驚きでした。
こういう発見や気付きが、たまらなくおもしろい。
そして、今あるメジャーな道ではなく、この赤ラインが岩倉街道。
新川という川にある、平田橋を渡ります。
橋を渡り終えると、「馬頭観音」がありました。
ひたすら真っ直ぐ…。
この辺りから、北名古屋市。
灼熱の太陽とこの直線。どっと疲れが…。
こういう小さな祠や神社も、いつからあるものなのかな。
案内板があると嬉しいな。
名鉄の線路と平行しているので、何度も見かける赤い電車。
「ここは九之坪 岩倉街道」
こうして、道案内があると本当に安心します。
昔の道標や一里塚の大切さが、分かるような気がします。
竹田の交差点。
そして、また一直線の道…。
店長、ゴールまであとどれくらいあります?
あと半分くらいかな。
(ゔ…まだ半分) すぎうら、ギブアップです…
(え?もう?) OK!後半は後日だね。
ここまで1万3000歩。
へなちょこ副店長。もう少し鍛えなきゃね。
後半に続く…
後半の巻(北名古屋市~岩倉市)
日を改めて、岩倉街道の後半です。
地図 ①
気持ちいいほど一直線
西春駅周辺は電信柱がなくて、空が開放的。
進路方向の左側に、温泉看板が見えてきました。
振り返って見ると、遠くに煙突が見えました。
結構お客さんもみえるようです。
少し歩いて行くと左側に、立派なほこら。
石碑をよく見ると、『天照皇太神宮』と記されています。
こちらの三孤社は、岩倉城攻めに向かう際、織田信長と梁田政綱が集合した場所だと、後に町史で知りました。
「米野」交差点。
振り返って撮ったので、今歩いて来た道が見えています。
春には桜並木が美しい、『五条川』までやってきました。
橋を渡り終えると、なんとも魅惑的な石碑が!
いよいよ、街道らしい古めかしいものに出会えました。
早速、近付いてみましょう。
地図 ②
神明太一宮一神門…どこで区切るのか、読めません。
神社があったの?
調べると、かつて「神明太一宮」(現在は「神明大一社」)の鳥居の門が、この岩倉街道に建っていた名残のようです。
その神社は、岩倉駅のすぐ北側に建っています。
約2.5kmも離れたこの場所に鳥居があったなんて、そうとう大きな力を持った神社だったのでしょうか。
昔ならさえぎるものもなく、2.5km先の神社を目印に(よし、がんばろう!)と歩いていたのかもしれません。
鳥居を想像しながら周りをキョロキョロしていると、また発見!
もう一つ、案内板みたいなのがあります。
回り込んで見てみると…
なんと!
注意、左右確認。^^;
歴史的なものかと期待したので、ちょっと力が抜けてしまいましたが、いや、待てよ…。
ここに、注意看板が建っているということは、ここは歩く道があるということか。
ほほう。看板の先に目をやると、草が生い茂っているものの、確かに道といえば道。
調べてみると「尾北自然歩道」というハイキングコースみたいです。
高低差の少ない、ゆるやかな全長27㎞のコースのようですので、桜を愛でながら散歩するのも良さそうですね。
一度に27km踏破は、私には厳しそうですが。
寄り道も楽しいですね。
さ、岩倉街道に戻ります。
ここからも、また真っ直ぐな道が続きます。
進路方向右側を見ると、突き当りにアーチ状の建物があります。
気になるので、寄り道。
名古屋鉄道、大山寺駅でした。
駅はお手洗いもあるので、要チェックですね。
おや?
駅舎の左側に小さなほこらが。
古びた石碑が、秘密の暗号みたいでドキドキします。
「気附地蔵尊」
お花も供えられ、地域に愛されているお地蔵様のようです。
温かい気持ちになります。
お地蔵様の足元に、家紋がありますね。
卍?
形が反転していますね。 卍 と卐(写真)
『丸に右まんじ』といったところでしょうか?
名鉄(名古屋鉄道)の、おなじみの赤い電車。
線路を渡ります。
地図 ③
しばらく行くと、また出てきました。
さきほどは、『神明太一宮一神門舊跡』 でしたが、
こちらは、『神明太一宮二神門舊跡』
舊跡とは、歴史上の事件や建築物などがあったあと、という意味らしいです。
ふと、左側に目をやると、突き当りに、ひっそりと存在感のある建物が。
門の壁に案内板があります。
お~!これはビンゴ!
織田氏ゆかりのお寺じゃないですか。
ん~でも信安夫妻…?どなたでしたっけ。(^o^;)
扉に織田木瓜
抱き茗荷?
花みたいなのも咲いている。
腑に落ちなくて、とことん調べました。
これは『抱き花杏葉』という紋らしいです。
馬具等の装飾品らしいのですが、う~ん、イメージが湧きません。
でも、茗荷ではないことが分かりました。
一つレベルアップかな。
織田伊勢守信安夫妻墓
この墓碑は、かつて織田信安の子孫 津田新十郎氏の菩提寺、名古屋市東区松山町含笑寺に建立されていた
墓碑銘文は
(正面)
松岳院殿大渓玉甫大居士
秋悦院殿大雲妙慶大姉
(側面)
天正19年辛卯年10月24日
寛永口口7月16日とある
織田信安の法号や没年には異説があるが、含笑寺過去帳や「尾張名勝地」「尾張循行記」にも同文を掲げるので、この墓碑は信安夫妻のものにまちがいないものと思われる。墓碑を建立したのは何代目かの津田新十郎であり、「士林泝洄(※)」の記事から推定すれば、江戸初期のものであろうと思われる。
戦後墓所が平和公園に移されたのち消息が不明になっていたが、たまたまその存在が発見され、織田信安夫人、秋悦院ゆかりの誓願寺の理解を得て、墓碑を含笑寺にから譲り受け昭和39年にここへ移建された。
岩倉市教育委員会
(※) 士林泝洄…尾張藩士の系譜を集めた系図資料
境内には、他に白山神社。
大迫力の弁慶の木像!
武蔵坊弁慶
弁慶は平安時代の末期の僧兵で 元は比叡山に住し 武術を好み五条の橋の上で源義経と出会って以来 義経の家来となった
平成25年12月吉日 当山山主書之
平泉に行く道中 義経を守り岐阜県白鳥を通ったと伝えられる白鳥町には 弁慶像と白山神社があったが この度白山大権現と共に 誓願寺を御守り戴くご縁が出来譲り受ける
「弁慶と牛若丸(源義経)」が橋で闘ったというような話は、修学旅行で聞いたような淡い記憶があったんです。
まさか、弁慶が源義経の家来になったとは、知りませんでした。
どちらかが、亡くなったんだと思ってました。
(忘却の生き物~)
店長にそのことを話したら、『勧進帳』もそうだよね、と。
勧進帳と言ったら、歌舞伎で有名なのは何となく知っていますが、お二人の話だったんですね。
ベニーKの『弁慶&牛若丸』の曲が昔から好きだった割に、全然理解していない私。
『誓願寺』をあとに、岩倉街道沿いでは、いろいろな生き物に遭遇。
店長曰く、『しおからとんぼ』というらしいですが、塩辛?
日本酒が飲みたくなる名前です。
鯉の赤ちゃんでしょうか。
「にぎやかくていいわよね~」と、近所の方が自転車越しに話しかけてくれました。
地元の人との何気ない会話。
温かい。
歴史のありそうな、古民家。
きっと家の中は別世界なんだろうなぁ。
「下本町下市場」の交差点。
この辺りは岩倉城跡ですので、岩倉街道から離れ、寄り道しましょう。
「下本町下市場」の交差点を右(東)に徒歩2分。
岩倉城跡の碑が建っています。
岩倉城跡
岩倉城は文明11年(1479年)頃 織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。
敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽、葉栗、中島、春日井)を支配し、下四郡(愛知、智多、海東、海西)を支配する清州城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清州城と並んで、もっとも重要な城であった。城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は弘治3年(1557年)織田伊勢守信安が末盛城主織田信行(信長の弟)と同名を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558年)の浮野合戦で破れ、翌2年3月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政7年(1860年)に建てられたものである。
岩倉市教育委員会 昭和49年2月15日市指定
『丸之内』という地名がありました。
その上は、まさに『城址』という地名。
岩倉城(城跡)へのご案内
標高8~10mの自然堤防上に立地する岩倉城は、文明の頃、織田敏広により築かれ、尾張上半国支配の拠点として約80年間栄えました。
永禄2年(1559年)に織田信長により攻められ、落城した岩倉城跡からは、城の規模などが、推定ではあるが、一部解明されました。昭和62年度から3年間にわたり、愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査がされ、6条の堀跡などが、古文書の記述とだいたい一致しました。
しかし、調査面積は、城跡推定値からすれば、ほんの一部であり、今後に期待されるところであります。
ただ、従来の通説を覆して、五条川東岸まで城跡が広がる遺構も検出され、強固な城であったことがわかりました。
堀幅は20mを超え、深さも3m以上もある大規模な堀跡も確認されております。
外堀や内堀からは、前述の発掘調査で椀や皿、中国製の青磁や白磁、貯蔵具の常滑焼の瓶や桶などが見つかっております。
珍しいものでは、つげの櫛や下駄、茶道具、呪術関係資料として、獅子頭、人形、呪符木簡など、注目されるものも発掘されております。古文書では、岩倉城攻めの記録で、「信長は二の丸まで押し詰めて…」と記述されております。
いわくら塾 観光ボランティア事業
城郭の細部については、「北角より古川の水を引き入れ、掘割とし、西口大門には土塁のみ、本丸館は宏大なり。平屋造りで、間口21間(約38m)、奥行13間(約23m)の望楼二重にそびえた大屋根、三里先より望む」と注目すべき記述があります。
信長は岩倉城を攻略し、その翌年に桶狭間で戦勝、小牧山城、安土城へと天下統一へと進むことになります。
道を挟んだところに、『城跡休憩所』があります。
町の至る所にある、謎めいた祠。
『岩倉廿一大師十一番札所』吉祥寺の石碑。
何を意味しているのだろう。
ちなみに、この『廿一』で21の意味らしい。
十(10)と十(10)=廿(20)
なるほど!
奥にお寺がありました。
吉祥寺さん。
こちらも大変趣があります。
『ねむり亀』
確かに亀に見えますね。
この先に、歩いてきた道中石碑(門跡)のあった、『神明大一社』があるようです。
が、この時には、そんなこととも知らず…帰路につく。
岩倉街道は、どこまで続いて、どこに繋がっているのでしょうか。
そのヒントにまた会える日まで。
まだまだ見知らぬ歴史が、たくさん埋もれていそうです。
街道情報
名称
岩倉街道(いわくらかいどう)
所在地
- 清須市枇杷島町
- 名古屋市西区(小田井)
- 北名古屋市
- 岩倉市
本日出会った人数
前半:5~6人
後半:4~5人
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。