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徳川家康のいとこ、水野勝成の生誕地?|愛知県碧南市、鷲塚城跡

目次

見学記録

『血槍三代』という本を、以前読みました。
結構カブイていたという戦国武将、水野勝成(みずのかつなり)。
愛知県刈谷市や広島県福山市の方が、印象が強いかもしれません。
しかし、この碧南市にある鷲塚城は、勝成が生まれた場所かもしれない、ゆかりのある地だと風の便りに聞きました。
これは行くしかないです。

鷲塚城

ということで、鷲塚城があったとされる、尾城公園(おじろこうえん)に到着。
いやぁ、この公園に入るまでに、15分程かかりました。
公園への入り口が、なかなか見つからなかったのです。
(入り口情報「アクセス・駐車場」参照)

結構広い公園です。
遠くに大きなすべり台も見えます。
どうやら、石碑はそちらの方のようです。
鷲塚城

公園入口から、すみっこを通ってすべり台まで来ました。
鷲塚城

すべり台の上がりきった所に、石碑と案内板がありました。

鷲塚城

『水野忠重 鷲塚城跡』石碑

鷲塚城

裏には、

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「広島県福山市 水野忠重公菩提寺
賢忠寺廿二世水野覺巖書
いしぶみ寄贈者 高橋祐治」

[/st-mybox]

と彫られてあります。
「賢忠寺(けんちゅうじ)」は、子である水野勝成が、父 水野忠重を弔うために建立したお寺だそうです。
「水野覺巖(かくがん)書」とありますが、第22世住職として2013年(平成25年)までの44年間、住職(書家)をされていた方のようです。
水野家菩提寺の住職であられた方が、石碑の字を書かれたんですね。
感慨深い。
「廿」という字は、十が2つ並んでみえるので、にじゅうと読むと以前学びました。

鷲塚城

『鷲塚城』わしづかじょう

所在地 碧南市尾城町(おじろまち)・城山町地内
時期  永禄7年(1564年)頃~天正8年(1580年)
城主  水野忠重
概要
旧字(あざ)城山にあった居館跡。
浸食谷を中央に挟んで南へ突き出た二つの半島状台地にあったといいます。
城の東西南三面は入海(いりうみ)でした。
城の北面に鷲塚から大浜・棚尾へ通じる道があり、途中城山の西に切戸という難所があり鷲塚を守る要所であるので、ここに城を構えたと伝えられます。
規模は、東西260間(約470メートル)・南北200間(約360メートル)で、居館は東の丘にあったといいます(「旭村誌」)。
兄水野信元と不和のため永禄6年(1563年)頃から鷲塚にいた水野忠重が、永禄7年(1564年)頃から天正8年(1580年)まで在城したと伝えられます。

城主・水野忠重(1541~1600年)

戦国時代の天文10年(1541年)に、刈谷城主水野忠政の末子として生まれました。
姉に徳川家康の母・於大、鷲塚の片山家に嫁いだお亀がいます。
初め兄水野信元と共に織田信長に仕えましたが、永禄6年(1563年)に三河で一向一揆が起こった時、兄信元と不和になり、刈谷城から鷲塚に移りました(「水野勝成覚書」)。
この時、従兄弟の水野太郎作らと共に、姉お亀のいる鷲塚の片山家に移り住みました(「山家文書」)。
この三河一向一揆との戦いで家康に属して戦功をあげた忠重は、家康から鷲塚城主に任じられ、鷲塚村を支配したといいます(「神有郷土記」)。
その後忠重は、天正8年(1580年)9月、織田信長から兄信元の旧領刈谷城を預けられて入城し(「家忠日記」)、再び信長、織田信雄(のぶかつ)、豊臣秀吉に仕え、伊勢神戸城4万石に移封されています。

(碧南市教育委員会)

家康が大分苦戦したと言われる、三河一向一揆の時の話なんですね。
刈谷のお兄さんと仲違いし、碧南鷲塚にいる姉の元へ移り住み、戦で頑張ったご褒美に家康に城を任された、ということか…。
ご褒美に城をもらうなんて、一体どんな活躍をしたのでしょうか。

鷲塚城

東西南三面は入海(いりうみ)と書いてあったので、色塗ってみました。

鷲塚城

このような絵図のお陰で、想像が膨らみます。

鷲塚城

◎現在地 の印が、すべり台上の案内板がある場所です。

尾城公園の周辺

尾城公園は浸食谷の辺りで低い場所ということでしたが、周辺は少し高くなっていました。
台地の名残ということでしょうか?
確かなことは分かりません。

鷲塚城

しかし、(…かもしれない)と想像するだけで、ロマンあふれる風景です。

鷲塚城

鷲塚城

結論。
勝成生誕地かどうかは、どこにも記載はなく、現地では全く分かりませんでした。
でも、もしかしたら、この地で勝成は生まれたかもしれないと思うだけで、碧南市鷲塚が特別な場所に感じます。
これから調べていく楽しみも増えました。
『血槍三代』久しぶりに読もうかな。

地形図

お城情報

名称

鷲塚城(わしづかじょう)

城地種類

平城

築城年代

永禄7年(1564)頃~天正8年(1580)

築城者・主な城主

水野忠重

遺構

なし

所在地

〒447-0036 愛知県碧南市尾城町2丁目68

開城時間

24時間(公園内に石碑と案内板があります)

本日出会った人数

公園であそぶ家族連れや子ども達:15~20人程

アクセス・駐車場

最寄りの駅から約2キロ。
歩くと30分くらいかかるので、車がおすすめです。
城跡案内板などが設置してある尾城公園内への入り口は、看板が目印のここだけのようです。

鷲塚城

駐車場は数台しか停められませんが、下の写真の赤い部分は駐車可能なようです。
鷲塚城

土日となると、家族連れや子どもたちでにぎわっている公園のようです。

鷲塚城

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※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

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この記事を書いた人

歴史初心者だからこそ気になるポイント、初めて出会う感動、少しずつ理解が深まる喜びなどを、私目線で気ままにつぶやいてます♪

三河生まれ尾張在住
好きなことばは『三河武士』
ディライト・グッズ副店長 & Web屋助手

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