天下普請とは?
天下普請(=江戸幕府が日本中の大名達に城造りを命じた土木工事)
天下普請の城と言えば、江戸城や名古屋城、大阪城などが有名。
今回訪れた加納城も、家康が天下普請で築いた城だということ知りビックリ!
そんな重要なお城が岐阜にあったとは…。
加納城の見どころや、実際に歩いたから分かるポイントをまとめました。
大手門
お城の正門から、入城。
三の丸跡
幼稚園と小学校が同じ敷地内にあるようです。
レトロモダンな門から入って、すぐ右側に三の丸跡の石碑がありました。
二の丸跡
現在は加納公園(グラウンド、テニスコート)や岐阜地方気象台などが建っていました。
荒田川
お城の東側に流れているのは荒田川。
当時は、現在の道路部分まで川幅があったようです。
そして、遠くには岐阜城も見ることができました。
御三階櫓
加納城跡 二の丸と三の丸
加納城は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の後、徳川家康が豊臣方の巻き返しに備えて築いたものです。
本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・大藪曲輪などを備え、周囲に堀を巡らした平城でした。家康は、長女の亀姫の夫である奥平信昌に10万石の領地を与え、この城の城主としました。
このことから、当時の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことがうかがえます。
二の丸には御殿、三の丸には役所がありました。この場所は二の丸と三の丸を隔てる堀にあたります。
幅は23~24mもあり、隣の荒田川から水を引いていました。左手の石垣は二の丸の東北隅櫓のもので、岐阜城の天守(三階櫓)が移築されましたが、享保13年(1728)の大火で焼失してしまいました。
平成10年3月 岐阜市教育委員会
岐阜城の天守を加納城の櫓として使っていたとは!
本丸
本丸への入り口は?
現在の入口は、当時は堀だったようです。
現在の入口から東側にある、橋(極楽橋)を通って本丸に入っていたんですね。
現在は、極楽橋も入口もありません。
ここは妄想力を発揮。
外枡形
極楽橋を渡って本丸へ入ると、そこは外枡形。
本丸の堀
北側の堀
南側の堀
本丸の周りの堀は、現在はぐるっと公園や広場になっています。
本丸の石垣
北側
史跡「加納城跡」本丸の石垣
この後ろに見えるのは加納城本丸北面の石垣です。
岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。
石は、角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。
石垣の角の部分は「算木積み」という横長の石を交互に組み合わせた積み方が認められます。この石垣は、「野面積み」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。
平成16年3月 岐阜市教育委員会
これほど良好に近世初頭の石垣が残存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。
加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。
草刈り後の石垣が見られたら、ラッキー。
岐阜城と同じ※チャートという石を使用。
相当硬いらしいです。
※チャート
放散虫(プランクトン単細胞生物)などが海底に堆積してできた岩石。
裏込め石が見られます!
石垣の中ってどうなってるの?
が見られる場所です。
地震に強い算木積み
石垣の角には、算木積みと言って、長い石が交互に積み重なっています。
この積み方は、地震の揺れを吸収してくれるので、強度が増すのだそうです。
熊本城も地震の際に算木積部分が残っていたのが印象深かったわ
あれ?ところで天守はどこ?
そういえば、本丸に天守台はあったのに、天守がない。
だけじゃなく、天守の情報がパンフレットや看板でも見当たらず…。
ネットで調べると、どこもかしこも「天守の代わりに二の丸に御三階櫓が建てられていた…」とあるけど、なんかすっきりしないなぁ。
こういうときの文献文献!
本丸北西部に「天守台」があったが、建物が実在したかどうかは不明である。
『東海の名城を歩く-中井均著』より
本丸は北西隅に天守台があったが、天守は建てなかった。
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書-千田嘉博指導調査委員』より
二の丸には藩主の御殿があり、実質的な城の中心として機能した。
本丸に藩主の御殿を建てなかったのは将軍上洛などに際しての宿館にあてるためであったと考えられる。
ほうほう。
二の丸御殿が城の中心として機能っと_φ(・_・
本丸に天守がないのも、そうなのねと思えるようになった。
でもね
じゃぁなんで天守台があるの?
これは調べたくなる案件ね
長刀堀
なぎなたぼり。
その名から、血洗池みたいに血なまぐさいものを連想をしたのですが、どうやら長刀の形が由来のようです。
現在は、暗渠となって民家の地下をひっそりと流れていました。
加納藩家中屋敷跡
加納城外濠の「長刀堀」の西側数町には江戸時代、20石から1千石の加納藩家臣の屋敷がありました。
元禄8年(1695)頃作成された絵図『加納藩家中之図』を見ますと、この辺りには1千石の家臣の屋敷がありました。いま、あなたが立っている道のすぐ東側は「長刀堀」でした。
「長刀堀」は明治45年(1912)に埋め立てられました。道の西側の家々の石垣を見てください。
この石垣は江戸時代、加納藩の家臣だった家の石垣です。加納城本丸の石垣と比べてみてください。
所々に補修の跡がありますが、加納城本丸の石垣と同じチャートが使用されています。以前は、このあたりのあちらこちらでこのような石垣を見ることができたでしょうが、現在では家中屋敷の石垣が残っている地区は、ここ加納長刀堀3丁目の一角だけとなってしまいました。
平成11年3月 岐阜市教育委員会
地図を片手に長刀堀を北上していった先にあったものは、この空間。
もしかしたら、長刀堀の名残?
ふわぁ~ん(*˘︶˘*).。.:*♡
近くの二文字屋さんから、うなぎのいい香りが…たまりません。
南大手門
南大手門跡の案内が立つ場所は、地図で見ると若干ずれています。
確かに考えてみれば長刀堀の中に門があるのも、おかしな話です。
いろいろな事情があって、こちらに置かれているのでしょう。
お城の西側にあるのに、なんで”南”大手門なの?
お城(天守)から見て南というとおかしな話になってしまいますが、大手門を軸に見て南方面にある門ということであれば納得?
『どうする家康』(2023年大河ドラマ)を機に、家康ゆかりの地をめぐってみたくなりますね。