2019年1月20日(日)
冬の冷たい小雨降る中、松阪城跡へ行ってきました。
蒲生氏郷が築いた 松坂城
松阪と言ったら、お肉。
食いしん坊の私はこれしか浮かびませんでしたが、初めて行くお城なので少しワクワク。
見学記録
主に石垣と天守台しか残っていませんが、十分な存在感と迫力があり、想像を掻き立てられました。
車で行ったため、市営駐車場(無料)に停め、地図上の赤い点線を、歩きました。
(こうして見ると、外周りから歩くなんて、なかなか通っぽいな)とふけってみるものの、実際はトイレを探して迷っていただけなんてね。(^^ゞアハハ
(1)表門跡
案内の看板がいくつか立っていました。
それを載せておきます。
『松阪城古今絵図』
「松阪城」
・築城
天正16年(1588年)、蒲生氏郷が四五百森(よいほものり)の独立丘陵に目をつけ、平山城として築いたものです。
・構造
城は北東に大手(上絵図・大手門跡〈四つ足御紋〉)、南東を搦手(からめて)(上絵図・搦手門跡〈竹御門〉)とし、城郭の外部に堀をめぐらし、本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸を築き、城郭の中央よりやや西に天守台を作り、三層の天守閣を築きました。そして天守閣を取り巻いてそれぞれの郭に敵見、金の間、月見などの櫓が配されました。
・石垣
石垣を築く工法はいくつかありますが、松阪城の場合は、自然の石を積み上げる野面積み(のづらづみ)を主体とし、水はけと堅固さを重視しました。隅部は美観に重点をおき、算木積み(さんぎづみ)というい工法が取り入れられています。
・竹藪と梅林
絵図にも示しましたが、長期戦に備えて、城内に竹藪と梅林がありました。竹は防御とともに槍や弓矢に使うため、梅林は食糧用もので、松阪城の梅林は桜とともに名所になっています。
・築城後の変遷
氏郷は、完成後間もない天正18年(1590年)、会津へ移封され、その後、服部一忠、古田重勝、重治らが城主となりますが、元和5年(1619年)、紀州藩の統治下に置かれ、天守閣は正保元年(1644年)、の大風(台風〉のため倒壊したとの記録があり、櫓などもその後、台風や地震などのため倒壊しました。
・堀
松阪城を取り巻く堀は、総延長が2100メートル。堀の構造は標準型といわれるもので図のようになっています。大部分は水堀ですが、一部、松阪工業高校東隅から第一小学校付近までの区間は空堀でした。幅と深さは上図に示しましたが、幅はほぼ20メートル、しかし市役所の前あたりでは30メートル余もありました。
・土居
土塁ともいい、堀の内側へ防御のため土を高く盛り上げたもので、堀を掘った土で築かれました。土居の表面に芝生を植え土居の下幅(敷・しき)は15メートル前後、高さは6メートル前後で、大手門のあった付近〈市役所横)の敷は19メートル余もありました。明治中期になって土居の土は元の堀に埋められ、田畑、宅地などに転用されました。
「現地の説明」
説明板左側にある鈴天食堂から市役所前にいたる道は、城の玄関口ともいうべき大手筋にあたります。市役所駐車場入口前の横断歩道付近にあった大手門を潜れば、そこはかつても三ノ丸であり、鈴天食堂前から城跡に上がった所には表門がありました。東京国立博物館には、明治5年(1872)に撮影された表門の古写真が残されています。写真により、おっもてもんは本瓦葦2階建で階上を渡櫓とし、その下に門扉を設けた櫓門の形式がとれらていたことがわかります。堀は市民病院の裏側にあり、今もその名残をとどめています。
『国史跡 松坂城跡』
指定平成二十三年二月七日 面積七四、三三七.三〇平方メートル
松坂城は、蒲生氏郷が天正十六年(一五八八)この四五百森に築城した平山城である。
蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正十九年(一五九一)に服部一忠、文禄四年(一五九五)に古田重勝と城主が変わり、元和五年(一六一九)に徳川頼宣が和歌山藩主になると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)十八万石を統括する城代が置かれてきた。
城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。
三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、天保元年(一六四四)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、二ノ丸には寛政六年(一七九四)に着工された御殿(別名徳川陣屋)があった。
明治十四年(一八八一)松坂公園となり、現在に至っている。
石垣に囲まれ何とも言えない雰囲気に期待大。
あれ?石に何か付いてる・・・
近くで見ると、一つ一つにガムテープで記号が書かれていました。
史跡整備に伴う発掘調査中のようです。
(2)助左衛門御門跡
迫力ある石垣に
見とれつつ
トイレを探し歩く
と、助左衛門御門跡。
(ス)スタンプ設置場所(歴史民族資料館)
そうそう、先ずはスタンプですね。
季節によって、開館時間が違うようです。
時間外や休館日に行ってしまい、悔しい思いをしたあの日・・・。
皆さんは、そんなことなされませんように(^_-)☆
スタンプだけなら、無料で押すことができます。
すごく分かりやすい散策マップ。
ここで、ルートを決めても良いかもしれませんね。
(3)城周り(北)
携帯片手にこちらの方へ行く方が非常に多く。
ミーハー血が騒ぎ、後を追う私。
(この判断がトイレから遠のく間違った判断だったとは、この時知る由もなかった)
石垣の斜面に木が!
多聞跡の長い石垣。
ところで、【たもん】って何?
【多聞】とは?
城の石垣の上にある長屋風の矢倉をいい、走り櫓(やぐら)、多聞長屋ともいう。松永久秀が永禄年間 (1558~70) 大和(奈良県)多聞城に建造したことからこう呼ばれたという。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
(4)城周り(北西)
角のところがピシっとなっていてカッコいい。
(5)捨石状遺構
埋門(うずみもん)を通って行こうとしたら、受付の綺麗なお姉さんが飛んで走ってきました。
受付のお姉さん「すみませ~ん!そちらは有料の区域なんです~」
私「アッすみません(恥汗)」
うちの店長「ここでトイレ借りたら?」
私「そんなの恥ずかしすぎる」と変な意地を張り、スタスタ歩き始める私。
私「とりあえずトイレ探してくるから、店長これ撮っておいて~!」上から目線で頼む。
これ撮っておいてが、これ。
『松阪城捨石状遺構』
松阪市では、平成14年度松阪城石垣復興事業として、裏門と本居宣長記念館の間にある「隠居丸」と呼ばれる部分の石垣南半分を修復しました。
その石垣の取り外し作業の途中で、石垣の一番下の基底石付近で、江戸時代の石垣修理の跡が見つかりました。この隠居丸付近は、地盤が脆弱なのが石垣の孕みが激しく、今回の修復となったのですが、松阪城から本居宣長ノ宮にかけての場所は、丘陵としてはやせた場所といえます。そのため、今回修復の石垣の地盤は、比較的弱い盛土のようで、地盤がゆるく基礎石付近の石が最大0.5mほど外に飛び出していました。それらの石を応急的に抑える石(捨石)が今回発見されたものと思われます。石垣の修復については、隠居丸付近の記録もあり、それらの修復に伴うものと推定されます。
石垣を抑える石は、現況の表土から約0.2m下から見つかり、板状の石の組み合わせで捨石が置かれ見つかりました。この捨石状遺構の幅は0.8mから1.0m、長さ約19mほどで、石垣が孕んだ部分にの見られまいした。捨石状遺構の例については、三重県下では現在のところ確認されていない珍しいものです。
(松阪市建設部都市計画課 松阪市教育委員会文化課)
(6)裏門跡
裏門跡の道路沿いにある公衆トイレ発見。(車椅子対応)
一番遠いルートで無事トイレ到着(笑)フゥ~
こちら、トイレ専用の駐車場がありました。
こんなふうに書かれた看板は、初めて見たので思わず撮影。
(7)二の丸
写真中央右手には、御城番屋敷(ごじょうばん)の屋根が連なっているのが見えます。
かつて、ここに住んでいた松坂城を護衛する【松阪御城番】の武家屋敷。
今現在も、子孫の方々が維持管理しながら住まれているそうです。
(帰ってきてから建物の存在を知り、写真に何とか写っていたのを発見し密かに感動)
え?城?
【松阪御城番】のやや左側に、お城らしき建物が。
ネットで調べてみると、歯医者さんの建物みたいです。
それにしても、インパクト大ですね。
そのお隣のケーキ屋さんが人気らしいのもついでに発見。
(コレもなにかの縁。次回は絶対行こう。)
松阪公園の一部は財務省所管の国有地であり、国有財産法の規定により、東海財務局津財務事務所から無料貸付を受けています。
松阪市
(※案内板より)
この高さから、石垣を横に見るもの、新鮮な感動。
ここは言葉にできないゾワゾワ感が味わえます。(おすすめポイント♪)
着物姿のモデルさんを囲み、撮影会をされていました。
城に着物って映えますな。
その先には【松阪御城番】。
次絶対行くから~!待っててね。
視点を城内に戻すと、二の丸跡には立派な藤棚。
『この紫藤は愛知県海部郡鍋田村字森津にあり当時二百余年経たのを、市内中町脇田藤助翁が明治二十三年に株分け市に寄贈されたものである。
通算樹齢約三百数十年を数へ藤棚面積三四六平方メートル(一〇五坪)主幹周囲は五メートル開花期は四月下旬紫色花房が一メートル余り花の香り高く松阪の名木として市民に親しまれています。
(昭和五十三年記)松阪市』
(8)中御門跡
くねくねと何度か虎口を曲がり、いよいよ本丸へ。
立派な石垣がお出迎え。
(9)本丸(上段)天守跡
天守跡。
この石なんだろう?
帰ってから調べると、古墳時代の石棺(石でできた棺桶)の蓋を再利用という事実が。
そんな古いものだったなんて…もっとじっくり見ておけばよかった。
何も案内板などないので、地面をキョロキョロ探してみてくださいね。
天守跡に、たくましく生きている松の木。
どんな状況でも、生き抜く強さみたいなものを感じますね。
(追記)
木の根っこが石垣をはらませたり、崩れる原因となることもあるのだそうで。
このときは、木のたくましさに見惚れていましたが、違う角度から物事を見ると、真逆の意味合いになることもあるんですね。
どうか、石垣も崩れず、たくましくあってほしいと願うばかり。
大きな2層の櫓で、金箔を貼った黄金の間があったそう。
(10)本丸(下段)
梶井 基次郎(かじい もとじろう)文学碑
小説『城のある町にて』では、松阪が舞台になっているそうです。
代表作『檸檬』にちなんで、檸檬の木も植わっているみたいです。
探してみてください。
すごい高さ。
ヒェッ (゚∀゚ノ)ノ
再び②のスタート地点へ戻ってきました。
蒲生さん、やっぱり凄いです。
蒲生氏郷。
どんな人か全然しりませんが、城を通して彼に興味が少し湧きました。
お肉だけじゃない松阪、ありがとう松坂城!
地形図
お城情報
名称
松阪城(まつさかじょう)
別名
なし
城地種類
平山城
築城年代
天正16年(1588年)
築城者
蒲生氏郷
主な城主
蒲生氏
服部氏
古田氏
所在地
〒515-0073 三重県松阪市殿町
電話
0598-23-2381(松阪市歴史民族資料館)
0598-21-0312(本居宣長記念館)
開城時間
24時間(公園のため)
休城日
年中無休(公園のため)
入城料
無料(公園のため)
スタンプ設置場所
●松阪市立歴史民族資料館
4~9月:9~16:30
10~3月:9~16:00
休館日:月曜(祝日除)、祝日の翌日、年末年始(12/29~1/3)
●本居宣長記念館(2階休館日は松阪市観光情報センター)
アクセス・駐車場
駐車場(お車の方)
松阪市駐車場に、無料で停められました。
市民病院利用者とグラウンド利用者も使われためか行った時は丁度一杯で、10分位待ちました。
211台分あるので、タイミングによっては、すぐ停められそうです。
バス停
【三重交通】のバス停(大人180円、小児90円)
市民病院前から歩いて約1分
【鈴の音バス】(小学生以上100円、未就園児無料)も松阪駅からあるようです。
※詳しくは各社HP等参考にしてください
無料駐車場あり(松阪市駐車場)時間制限なし
JR紀勢本線・近鉄大阪線【松阪駅】から徒歩約15分
松阪駅から三重交通バスで【市民病院前】下車徒歩約1分
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。