三重県の城 城・史跡をあるく 続・日本100名城

津城 続日本100名城No.152 三重県の城

2019年2月4日

2019年1月20日(日)

織田信包築城 藤堂高虎の城

見学情報

(1)復興櫓~太鼓門跡

津城 地図

東鉄文跡には、復興櫓が建っています。
お城に詳しくない人は、これが津城なのかなと思うかもしれません。
が、これは櫓(やぐら)のレプリカ。
敵が来ないか見張ったり、ここから侵入者を狙ったりしたんですね。
しかも実際には、ここには櫓は建っていなかったようです。

案内板がたっています。

拡大してみると・・・

『津城跡』
三重県指定史跡 所有者:津市 (平成年17年3月25日指定)安土桃山時代

津上は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580年)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。

慶長13年(1608年)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に隅櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式また囲郭式といわれる形の城である。

城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町家が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。

(ス)スタンプ設置場所(高山神社)

津城 地図

公園内を突き抜けて、脇目も振らずスタンプ設置場所へ。

藤堂高虎をまつった高山神社(こうざんじんじゃ)。
”たかやま”ではなく、”こうざん”なんですね。

高山神社の西隣に、スタンプ設置場所の社務所があります。
ガラス戸の内側にあるので、中の方に一声かけて、スタンプをお借りしました。

先程見た復興櫓ですね~。

(2)天守跡

津城 地図

ネットなどで見ると、もっと近くから写真を撮られているようです。
中に入っても良かったんですかね。
怒られたらどうしようと、小心者の私。
まだまだ甘ちゃんです(^^;

(3)藤堂高虎像

津城 地図

この方が藤堂高虎さん。
私「あれ?男じゃん。家紋て橘じゃなかったっけ?ムム。おかしいぞ!」
店長「・・・。(何言ってんだ??)」
華麗にスルーされる私。
直虎と勘違いしてました。
おかしいのは紛れもなく私。

『藤堂高虎公』

弘治二(1556)年、近江国犬上郡藤堂村(のち存士村、現滋賀県甲良町)に生まれた。15歳の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正四(1576)年21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀吉)に三百石で召し抱えられ、天正十三(1585)年には紀州粉川(和歌山県粉川町)ではじめて一万石の大名となった。

その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)二十万石の大名となった。

そして、慶長十三(1608)年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大坂の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名となった。また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・築山城・丹波亀山城・大阪城・二条城と数多く手がけている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の暖まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。

平成10年10月吉日 津中央ライオンズクラブ寄贈

『伊勢街道』
伊勢街道は参宮街道ともいい、日永の追分(四日市)で東海道から分かれ、神戸、白子、上野、津、松坂、小俣、山田を通って伊勢神宮の内宮へ至る、19里18町(約76Km)の街道である。
伊勢へ向かう街道は、都が奈良にあった時代は宇陀→名張→青山峠→伊勢というルートが一般的であった。
しかし、都が京に移ってからは鈴鹿峠を通るルートが開かれ、これが東海道として発達した。
これによって、京から伊勢のルートも鈴鹿峠を通ってから南下するのが主流となった。
中世から始まる庶民の伊勢信仰によって伊勢へ向かう人の数は増え、さらに江戸時代の街道の整備・発達やお蔭参りの流行によって一層賑わった。

『四天王寺』(津市栄町)
津市内屈指の古刹(古い寺の意)。曹洞宗の中本山で聖徳太子の創建と伝える。寺勢の衰えた時期もあったが、藤堂高虎の入府後は藩の援助もあって盛り返し、江戸時代を通して街道沿いの名刹(有名な寺の意)として栄えた。境内の墓所には、織田信長の母土田御前の墓をはじめ、高虎の正室久芳(くほう)夫人や藩校有造館督学の斎藤拙堂など津藩に関係する人物の墓碑も数多い。

『津観音』(津市大門)
真言宗醍醐派の寺院。8世紀初頭に阿漕浦(あこぎうら)の漁夫の網にかかり出現したと言われる観音像を本尊とする。中世期までは岩田川の南の柳山にあったと伝えられる古刹で、藤堂高虎による城下町建設の折に津城の鬼門にあたる方角(北東)に観音堂を設けられ、将軍家や津藩藤堂家の祈願所として手厚い庇護を受けた。
江戸時代の『伊勢参宮名所図会』でも津の名勝地として描かれ、多くの参詣者を迎える様子が描かれている。
現在は、東京浅草、名古屋大須の両観音と並んで日本三観音と称され、年間を通じて様々な行事が行われている。

『伊賀上野城』(津市河芸町上野)
現在の津市美里町を本拠としていた長野氏支配の城であったが、、織田信長の伊勢侵攻によって長野氏の養子となった弟の織田信包により大きく改修された。
標高30mほどの最高所にある本丸には、その周囲には今も土塁が残っていて中世の城の雰囲気を感じさせる。
天正8年(1580)に信包が津城に移った後は、分部氏が城代として城を引き継いだ。その後、関ヶ原合戦後に成立した伊勢上野藩(2万石)分部氏の本拠となったが、元和5年(1619)の近江国大溝(現在の滋賀県高島市)への転封により廃城となった。

『津城跡』(県指定史跡)
天正8年(1580)、織田信長の弟の織田信包(のぶかね)により築かれた平城。
富田氏を経て、慶長13年(1608)に入府した藤堂高虎により城と城下が一体的に整備された。これにより、それまで海岸近くを通っていた参道街道が城下を通るようになり、津は伊勢街道の宿場町としても大いに賑わうようになった。
現在は市街地化され、本丸部分の石垣にその威容を残すのみであるが、かつては幅広い内堀と外堀を巡らせた大規模な城で、藤堂高虎の城づくりの完成形として評価できる。

『藤堂高虎』(1556~1630)
弘治2年(1556)、近江国藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれた戦国武将で、城づくりの名手として知られ、戦略家でもあって生涯に7人の主君に仕えた。関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に貢献し、その功績によって大きく加増されて20万石の大名となり、その後伊予国今治(愛媛県今治市)から伊勢・伊賀に転封となって津城を改修し、津の町の基盤整備を行った。

『織田信包』(1543~1614)
尾張の戦国大名・織田信秀の子で、信長の弟。永禄12(1569)年の信長による伊勢侵攻後、長野氏に養子入りしたが、山中の長野城には入らずに伊勢上野城を暫くの居城とした。安濃川と岩田川に挟まれた要害の地を選んで築かれた安濃津城は天正8年(1580)頃に完成した。同じ頃、安濃津の町人を城近くの橋内地域に移住させて津の町の原形を作った。

『江』(崇源院1573~1626)
戦国武将浅井長政と織田信長の妹お市の間に生まれた三姉妹の末子。
天正元年(1573)の小谷城落城後、母や姉二人(茶々・初)とともに織田信包に預けられたとする記述(『織田軍記』第十三)があり、天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長が亡くなるまでの間、伊勢上野城で過ごした可能性がある。

(4)本丸跡

津城 地図

「城の中で最も重要なところであるが、現在は洋風庭園になっている。
南西櫓の石垣が一段高くなったところに5層の天守閣があった。
また、天守台のやや東、石垣が切れたところには埋門(うずみもん)があった。
周囲には丑寅三重櫓をはじめ、5つの櫓があって、多門櫓でつながっていた。」
※①入り口案内板より

『高山公遺訓』
寝屋を出るより
其日を死番と可得心
かやうに覚悟極るゆへに
物に動する事なし
是可為本意

意訳:寝室を出る時から、今日こそが”死ぬ日だ”との覚悟を持って生きよ。
そういう覚悟があれば、物に動じることはない。本来こうあるべきだ。

今日が最期の日と思って生きる。
そんな風に思って生きたことないなぁ。
戦国の時代の人って、とてつもない世界で生きてたんだなぁ。

(5)内堀1(西の丸跡)

津城 地図

本丸、西の丸、東の丸を取り囲んでいたが、順次埋め立てられて、現在は本丸と西の丸のまわりに少し残っているだけである。
(※①案内板より抜粋)

鴨が水遊び。なんか平和~。
石垣に設けられた小道みたいなところは、【犬走り】というらしいです。

【犬走り(いぬばしり)】
垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分。犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから呼ばれる。
※Wikipediaより

西の丸
現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。
南西には玉櫓と二階門があった。
もんは入り口が鍵の手に曲がり、いわゆる枡形門といわれるものであった。
本丸との境は、土橋でつながっていた。
(※①案内板より抜粋)

(6)内堀2(西の丸跡)

津城 地図

これはなんでしょう。
調べても手がかりが見つかりませんでした。
案内板が立っているといいのにな。

(7)内堀3(西の丸跡)

津城 地図

パノラマで撮ってみました。

(8)内堀4(戌亥三重櫓跡近辺)

津城 地図

この石垣の角に、三重櫓が建っていたんですね。

多聞跡も圧巻です。

鴨たちが私達を追いかけてきた。
可愛いやつらめ。

一周して、スタート地点の復興櫓まで来ました。
とは言っても西の丸完全スルーしました。
勉強不足が否めません。
反省を次回に活かします!

(9)ちょっと寄り道

佐藤健主演のドラマ『天皇の料理番」でも一躍有名になった、天皇の料理番こと秋山徳蔵シェフ。
その秋山さんが3代目料理長を勤めたのが、ここ東洋軒です。

ブラックカレー食べたいなぁと思い立ち寄ってみましたが、準備中でした。
またゆっくりおじゃまします。

地形図

お城情報

名称

津城(つじょう)

別名

安濃津城(あのつじょう)

城地種類

平城

築城年代

元亀~天正年間(1570~1592年)

築城者

織田信包(おだのぶかね)

主な城主

藤堂高虎

所在地

〒514-0033 三重県津市丸之内5-1

電話

059-225-8558(高山神社社務所)

営業時間・休業日

該当なし(公園のため)

入城料

無料(公園のため)

スタンプ設置場所

高山神社社務所(9:00~16:00)

アクセス・駐車場

近鉄名古屋線「津新町」駅から徒歩約10分
津市営お城東駐車場(30分100円、その後30分毎に50円)

※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

-三重県の城, 城・史跡をあるく, 続・日本100名城
-, ,

© 2021 ディライト・グッズ