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岐阜県羽島市の城跡 竹ヶ鼻城
2019年2月10日(日)
岐阜県羽島市にある、竹ヶ鼻城へ行ってきました。
竹ヶ鼻城は、この石碑と解説板があるだけのようです。
見学記録
(1)竹ヶ鼻城本丸之趾
地図の1番、竹ヶ鼻城跡へ。
道路に面した一角に、その碑はあります。
駐車場は後ほど紹介しますが、”ぐるっと羽島”へ車を置いて、まずはじっくり見ることに。
史跡 竹ヶ鼻城本丸之趾
以前は羽島郡竹ヶ鼻町。
今は羽島市に合併され、竹鼻町として存続しているようです。
1584年 小牧・長久手の戦いで水攻めされた城|城主・不破源六広綱のとき
秀吉さんの水攻めされた城と言ったら、岡山の高松城と、映画『のぼうの城』にもあった忍城が有名でしょうか。
しかし、この竹ヶ鼻城も水攻めされた城だったんですね!
私初耳でした。
竹ヶ鼻城を水攻め
「小牧・長久手の戦いが始まる。
信雄配下の源六広綱は家康方につく。
秀吉が、小牧・長久手の戦い後、家康誘い出しで、まず加賀野井城を総攻撃。
落城させたあと、堅城とみられた竹ヶ鼻城を水攻めする。
秀吉2度目の水攻めで城を半円形に囲む延長3キロの堤を10万の大軍をもって5~6日で築いた。」
”ぐるっと羽島”の交流センター内の説明文より
1600年 関ヶ原の戦い|城主 杉浦五左衛門重勝のとき
『関ヶ原の戦い』竹ヶ鼻城跡
天正9(1581)年、当時の城主・不破広綱は縄張りを拡げ、鬼門の守護神として八剱神社(竹鼻町)を遷座、菩提寺として本覚寺(竹鼻町)を創建した。
3年後の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉の水攻めに苦しめられた後、開城している。
「竹ヶ鼻城は、応仁年間(1467~1469)の築城と「美濃古城史」にある。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与した岐阜城の織田信秀の家臣・杉浦重勝が城主を努めていたため、8月22日、木曽川を渡河した東軍に城を包囲される。
重勝は降伏を勧められたが、拒絶し抗戦。大身槍をふるって群がる敵陣に踊り入り、獅子奮迅の働きをみせたものの、ついに力尽き、城に火を放って自害した。
関ヶ原の戦い後、竹ヶ鼻城は消滅。
城跡の位置は残された口承や文献、地形によって推定されるが、確証は得られていない。※
勝利した東軍は、翌日に岐阜城を攻撃して落城させ、赤坂(大垣市)に集結して大垣城の西軍本営と対峙する。
※道を挟んだ向かいの「お城地蔵尊(昭和25(1950)年、石標とともに建立)」の存在や、この地・城町開拓の文書資料を根拠に、この周辺を本丸跡とみる新設がある。」
おっと、紋は丸に違い柏。
最近デザインした紋だったので、この紋よく覚えてました。
(2)”ぐるっと羽島”はしま観光交流センター
次は石碑から目と鼻の先。
”ぐるっと羽島”はしま観光交流センターへ。
白い車が入っていこうとしているところが、駐車場入り口です。
トイレも綺麗で、安心して使えます。
1日200円で自転車をレンタルできるようです。
天気のいい日に、街をサイクリングするのも、気持ちよさそう。
この蔵、中はお土産屋さん。
上の階から、おばさま達の楽しそうな談笑が聞こえてきました。
2階は伝統の機織り実演や、体験もできるようです。
はしま観光交流センター内には、給水所、やテーブル椅子があって、ゆっくりできます。
地域の観光情報もたくさんあるので、ここで旅のプランを練るのもよさそうですね。
はしま観光交流センター内の壁面には、歴史関連のものもいくつか掲示してありました。
最期の城主、杉浦重勝のポスター。
私と同じ、杉浦姓の武将!初めて出会えました。
家紋『丸に違い柏』
竹ヶ鼻城 最期の城主『杉浦五左衛門重勝』
慶長5(1600)年8月22日
西軍に属していた織田秀信の配下にあった竹ヶ鼻城は、関ヶ原の戦いの前哨戦として、1600人の兵を率いて東軍の先陣を切る福島正則らの猛攻にさらされた。
城主の杉浦重勝は降伏のすすめを拒否して交戦したが、力尽き、城に火を放って自害。
戦いは一日で終わった。
『丸に違い柏ストラップ』 商品詳細ページ
(追記)
杉浦重勝の家紋だと思っていた「丸に違い柏」紋。
このブログを読んでメッセージを下さった(杉浦重勝にゆかりのある)方から、右の葉が上になったデザインの家紋が、杉浦重勝の家紋だという情報をいただきました。
「丸に右重ね違い柏」という家紋名でストラップ発売しました。
正式名称は調査中ですので、わかり次第変更します。
(2021年1月18日現在)
施設内に、杉浦重勝について書かれた解説板がありました。
竹ヶ鼻城最期の城主 杉浦五左衛門重勝
「美濃の傾奇者、「大身の槍」片手で軽々
竹ヶ鼻城最期の城主 杉浦五左衛門重勝
降伏をけって炎上する本丸で自刃
杉浦五左衛門重勝は、強靭な武将だった。
戦での得物は大身の槍で穂先は4尺(1.2メートル)、柄は7尺(2.1メートル)という長槍。
一人でとても持ち切れず、平均身長155センチ前後の戦国の男たちが3.5メートル余の槍を縦横に扱いこなすのは並のことではなかった。
それを五左衛門はやすやすと片手で振りまわし、敵をなぎたおしたといい、五左衛門の大男と大力ぶりは世間に知れわたっていた。
また、豪勇の一方、土木・水利にも詳しく尾州領内の道路や堤防工事にも関わり、自慢の槍を立てて、作業者を鼓舞したという。
そんな五左衛門は今、人気の前田慶次のような粋な「美濃の傾奇者」を想像してしまう。
関ヶ原の前哨戦となった1600(慶長5)年8月22日の竹鼻城の戦いだが、五左衛門ら正軍勢は木曽川右岸に柵を作って持ち堪えた。
これを見た東軍先鋒の福島正則やの軍勢は前夜に舟を用意、手薄だった下流に回って加賀野井から木曽川を渡った。
敵の動きを読んで五左衛門と岐阜からの援軍は急いで城内に戻って防御を固めた。
福島隊は加賀野井城あたりをかすめて北上、午前9時ごろから城攻めが始まった。
攻防は6時間余に及んだ。
しかし二の丸を守っていた岐阜城からの後軍が裏切り、本丸が孤立、追い詰められた五左衛門は降伏のすすめを拒絶して抗戦を続けたが、ついに力尽き、門に自慢の槍を立て掛け、城に火をかけて自害して果てた。
波乱に飛んだ五左衛門の生涯は炎上する本丸内で散った。
織田信長に仕え、信長没後は信雄に従って浅野城主(一宮市)となった。
次いで豊臣秀次の臣となり、幕下の重臣・田中吉政に従った。
秀次転封により尾濃を領有した織田秀信(信長の孫)に仕え11000石の竹鼻城主となった。
統領の交代で主従が入れ替わる戦国の世にあって、名のある主のもとで武者働きを続けた五左衛門。
木曽川で対じした東軍には仕えた田中隊がいた。
まさに今日の友は明日の敵といったところだが、最後は秀信に忠義を貫き、降伏をけってサムライとしての矜持を全うした。あっぱれ五左衛門。」
竹鼻城・関係年表
1467~1469(応仁年間)
城主・竹腰伊豆守尚隆
・美濃の守護・土岐氏に仕え、竹鼻城を築き初代城主となった
1480~(文明年代後半)
城主・長井豊後守利隆
・土岐氏の重臣・斎藤氏の一族で、2代目城主として入城、時期は不詳
・岐阜の加納城に移る
城主・不破権内綱村
・土岐氏、斎藤氏に仕えた後、織田氏に臣従した。入城時期は不明
城主・長井隼人正道利
・豊後守利隆の二男。城主を継いだが、後に関の城主になる
城主・不破源六広綱
・綱村の子で信長の死後は二男・信雄に仕え、28,800石を領した
1580(天正8年)
・父・綱村の霊を弔い、竹鼻城の菩提寺とする本覚寺を復興した
1581(天正9年)
・城の鬼門(東北)の守り神として八剣神社を現在地に遷座した
1584(天正12年3月)
・小牧・長久手の戦い始まる。信雄配下の源六広綱は家康方につく
(同年5月)
・秀吉が小牧・長久手の戦い後、家康誘い出しで、まず加賀野井城を総攻撃、落城させたあと、堅城とみられた竹鼻城を水攻めする
秀吉2度めの水攻めで城を半円形に囲む延長3キロの堤を10万の大軍をもって5,6日で築いた
備中高松城に次ぐ水攻めは「秀吉の一夜堤」と言い伝えられるこの戦いの中で、妻の父の八神城主・毛利広次は秀吉を恐れて、竹鼻への後軍を断ったため離縁、夫人が里帰り途中に自害するという「三七松の悲劇」があった
(同年6月)
・源六広綱は秀吉の降伏勧告に応じ、城を明け渡し伊勢長島に退去した
(同年)
城主・一柳伊豆守直末
・秀吉攻囲軍の将。軍功により伊豆守に任じられ城主に取り立てられた
1585(天正13年)
一年半城主を勤め、大垣城主に転じ、次いで本巣郡軽海(5万石)に移る
(同年9月)
城主・伊木清兵衛忠次
・秀吉の家臣・池田輝政(岐阜城主)の家老。墨俣城から移ってきたとの資料も散見
秀吉の朱印状禄高は5000石
1590(天正18年)
城主・森寺清右衛門
・池田輝政の家臣
輝政が三河吉田城転封に伴い伊木清兵衛も三河田原城へ変わり、今尾城にいた森寺清右衛門が城主におさまった
森寺のその後については不詳
1592(文禄元年)
城主・杉浦五左衛門重勝
・信長の孫・秀信(岐阜城主)の家臣。城主となって8千石を領した
戦国の武将として、それまで信長、信雄、秀次らに仕え、田中吉政にも従った
最後の主となった秀信は関ヶ原合戦で西軍についた
1600(慶長5年8月21日)
・東軍の前衛部隊が木曽川左岸上流の河田の渡し(川島町)と中流の起こしの渡し(尾西市)に到着
夜に福島隊が下流の加賀野井から渡河する
(同年8月22日)
・福島正則ら東軍勢が猛攻、白昼の戦いとなる中、竹鼻城は半日あまりで落城、五左衛門重勝は自刃する
(3)街のいたるところに仏像?
帰り道、道路脇に何か建っているのに気付きました。
木の仏像かな。
何とも愛嬌のあるお顔立ち。
円空の生まれた地ということで、円空仏を街の人たちが彫ったもののようです。
たくさんの円空仏が、街を温かく見守っているようで、温かい気持ちになりました。
地形図
お城情報
名称
竹ヶ鼻城
城地種類
平城
築城年代
応仁年間(1467~1469年)
築城者
竹腰尚隆
主な城主
竹腰尚隆
長井利隆
不破広綱
杉浦重勝
所在地
〒501-6241 岐阜県羽島市竹鼻町2624
開城時間・休城日・入城料
該当なし(石碑のみのため)
アクセス・駐車場
無料駐車場あり(ぐるっと羽島)9:00~17:00
羽島市役所前駅から徒歩5分
駐車場は”ぐるっと羽島”へ
車7台分の駐車場があります。
2月の日曜で、駐車場には私達の他に車が一台でした。
9:00~17:00まで無料駐車可。
”ぐるっと羽島”の観光案内所は16:00までだそうです。
館内利用の方は、時間差があるのでご注意を。
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。