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水野氏の居城-刈谷城をあるく|愛知県の城

愛知県刈谷市にある、刈谷城へ行ってきました。
目立った遺構はなく、城跡というより公園という印象でしたが、ちょうどお花見シーズンで、すごく賑わっていました。

目次

刈谷城

パンフレット(地図)は、刈谷市歴史博物館の受付の方にいただきました。

見学記録

本丸跡

4月初旬とあって本丸跡も花見客がちらほら。
奥に見えるのが、戌亥櫓のあった場所に建つ「十朋亭」。

生保の城絵図によると、本丸の大きさは東西27間(約48.6m)×南北65間(約117m)で、ほぼ長方形の形をしており、周囲は土居と石垣によって囲まれている。
正徳期頃の城絵図によると、本丸内に番所と井戸があったことが確認できる。

戌亥櫓いぬいやぐら(北西隅櫓)

現在はは櫓ではなく、十朋亭という建物がありました。

刈谷城 戌亥櫓

十朋亭

大正5年、大野介蔵が刈谷城本丸跡に士族会員の会合場所としてつくった。
江戸時代初期には、三層の櫓のあったところ。
十朋亭の命名は、岡鹿門おかろくもんにより、中国の四書五経の一つである易経に「十朋之亀弗克違」(十朋の亀違うにあたわず、必ず吉占いを得るだろうの意)から引用された。
岡鹿門は、松本奎堂の親友で、仙台藩の学者である。
現在の建物は、昭和47年3月に改築された。

平成16年2月 刈谷市 刈谷市教育委員会
刈谷城

刈谷城跡

天文2年(1533年)に水野氏が金ケ小路のほとりに築城した。
水野氏を最初に、以後水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦、土井氏の譜代大名が城主となる。
明治4年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、城郭の建造物は取り払われた。
大正2年大野介蔵に売却され、旧城跡を永久に保存することになった。
昭和11年町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、刈谷町に売り渡され、翌年には亀城公園となった。

平成16年2月 刈谷市 刈谷市教育委員会
刈谷城
史跡巡りコースの地図

江戸時代前期まであった。
櫓の名称が記載された史料はないが、方角から戌亥櫓、または北西櫓とした。
この櫓について、正徳期の絵図には「下ノ重四間二五間」「上ノ重三間四間」とある。

辰巳櫓(南西隅櫓)

辰巳櫓の辺りに、看板が建っていました。
『亀城公園再整備事業』
辰巳櫓(南東隅櫓)や多門櫓などを造るようです。
ワクワクしますね!

刈谷城 

宝永4年(1707年)の宝永地震で倒壊したとされる。
戌亥櫓と同様に、櫓の名称が書かれた史料はないが、仮称として辰巳櫓、または南西隅櫓とした。

表門(本丸西門)

表門にあたる、隣の球場につながる道。
少し下り坂になっているのが、わかります。
ほんの少し小高いところに本丸があるということですね。

刈谷城

本丸に入る中心的な門。
明治6年の払い下げの史料には本丸西門とある。

裏門(本丸東門)

明治6年の史料には本丸東門とありましたが、今は階段となっています。

刈谷城

町口門

刈谷城 町口門

肴町と本町の通りを下りてきたところに広くつながった広場があり、そこから階段を上って町口門を通って城内に入る。
城下町と城内を分ける中心の門であった。
門を入った左手に番所がおかれ、町人は鑑札(かんさつ)がないと通行できなかった。
鑑札を願い出た者に町口門通り札を渡し、城内での商売を許した。
昼7つ時(午後4時ごろ)から閉ざして通行を禁止した。
明和2年(1765年)10月から庄屋・組頭で用がある場合は出入りを許された。
文政4年(1821年)にはどの商売でも通行札を貰えば自由に通行できるようになった。

大手門

刈谷城 大手門

町口門から本丸に向けていくと冠門があり、そこをくぐって右に折れたところに大手門があった。
大手門を通って左に折れて本丸へと道があった。
大手門とは城郭の表の正門にあたるところ。

緒川口門

この門を出て西に行き、衣ケ浦(ころもがうら:現在はきぬうらと呼ぶ)を渡ると尾張国緒川(現東浦町)に通じるため緒川口門という名前が付いたとされる。
ここに番所があり、侍屋敷と町屋との境となっており、藩士のみが出入りすることができた。
緒川口門を入ると、町口門までの道の両側に侍屋敷が立ち並んでいる。

大蔵下門(三ノ門)

刈谷城

正徳期頃の絵図には大蔵下門とあるが、明治初年では三ノ門とある。

月見櫓(二重櫓)

刈谷城

明治6年の払い下げの史料には二重櫓とあるが、江戸時代の城絵図には月見櫓と書かれている。
名前の通り、ここで月見をした櫓であった。
今は何も残っていないが、当時は月とともに衣ケ浦に浮かぶ月もあわせて鑑賞したことだろう。

多門坊口門

刈谷城

江戸時代には熊村に侍屋敷があったが、その家臣たちが登城する際にこの多門坊口門から城内に入り、さらに熊村口門・帯郭門を抜けて本丸に入ったと思われる。

御殿

はっきりしたことは分かっていないが、元禄期(1688~1704年)頃までは本丸内にあり、そのあと現在の亀城小学校の校庭のところに移ったのではないかと考えられる。
残されている平面図によると、大書院おおじょいん小書院こじょいん表御居間おもておいま湯殿ゆどの女中部屋じょちゅうべや、台所などの名称がみられる。

札の辻

刈谷城

高札こうさつ/たかふだが建てられていたことろで、現在の銀座4丁目から5丁目にかかる辻にあたる。
江戸時代ではここが本町と中町の境となっており、また寺横町と南横町がこれに交わって辻となっており、この辻の北西に高札があったところから札の辻といわれた。

椎の木屋敷

刈谷城の北東に位置し、椎の木藪ともいわれていた。
屋敷とあるがこのあたり一帯のことをさす。
江戸時代では、一般に出入りが禁止されており、人夫(にんぷ:力仕事をする労働者)がときどき掃除を行い、出入口には鍵がかかっていた。
中央は窪地で、まわりが高く、椎の木が多く茂っていて、五輪の塔が数基あった。
その傍らに地蔵尊が立っていて、城外の霊地とされていた。
椎の木屋敷に関しては、徳川家康の生母である於大が、岡崎の松平広忠に離縁されて刈谷に戻された際、一時住んだといわれている。

焔硝蔵えんしょうくら

刈谷城

焔硝蔵とは火薬を貯蔵するために造られた倉庫のこと。
煙硝蔵、塩硝蔵とも書く。
一般的には落雷や類焼(るいしょう:火事が燃え移ること)の危険から守るために、完全な石垣造りの穴蔵で、壁も天井も堅固な石垣で造られたが、刈谷城の場合はどのような作り家はわかっていない。
月見櫓のすぐ北にあったが、明治初年では三ノ門のあたりに場所が変わっている。

金ケ小路

刈谷城

大手門の前から西にのびる小道を金ケ小路といった。
刈谷城築城に関する史料に「かねがせうじといへるところに新城を築き」とあり、この「かねがせうじ」が金ケ小路でこの道であるとされる。
当時はこの道しか名前がなかったので、その名が使われたものと思われる。

地形図

お城情報

名称

刈谷城かりやじょう

別名

亀城

城地種類

平城

築城年代

天文2年(1533年)

築城者

水野忠政

主な城主

水野氏

遺構

曲輪、水堀、土塁、石碑、辰巳櫓(碧南市の妙福寺に移築か)

所在地

〒448-0833 愛知県刈谷市城町1丁目49

開城時間・休城日・入城料

該当なし(公園のため)

アクセス・駐車場

(電車)名鉄三河線「刈谷市駅」から徒歩約15分

(車)駐車場:亀城公園駐車場(無料)

私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。

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この記事を書いた人

歴史初心者だからこそ気になるポイント、初めて出会う感動、少しずつ理解が深まる喜びなどを、私目線で気ままにつぶやいてます♪

三河生まれ尾張在住
好きなことばは『三河武士』
ディライト・グッズ副店長 & Web屋助手

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