もう一つのお仕事、HP制作が立て込んでいた2019年下半期。
2020年になり、史跡巡り復活(^^♪
2020年1月18日(土)
今回は、愛知県豊川市にある牛久保界隈を、10名の歴史愛好家の方々と巡りました。
私の中で話題沸騰中の牧野古白絡みの史跡や、あの今川義元の胴体が眠る「胴塚」を観に行けるとあって、ポーカーフェイスのわたし、傍からは分からないとは思いますが、かなり興奮しておりました。
見学記録
1.牛久保城跡
豊橋駅からおよそ10分で「牛久保駅」到着。
「山本勘助ふるさと」の垂れ幕が。
山本勘助?山本寛斎じゃないよね。
山本勘助を知らない。
この史跡巡りが終わる頃には、何か分かっているであろうか。
牛久保城跡は、駅から目と鼻の先。
踏切を渡ると、すぐ牛久保城跡。
一見公園のようで、通り過ぎてしまいそう。
結構車の通りが激しいので、気をつけて渡ります。
牛久保城跡
この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529年)一色城牧野成勝(まきのしげかつ)が、今橋城主(のちの吉田城主)の信成(のぶしげ)の名を受けて築城したといわれています。
扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。
城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。
城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が※曲尺手(かねんて)になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。
のちに、牛久保は天領となり元禄13年(1700年)廃城になりました。
いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を忍ばせています。―豊川市教育委員会―
(『牛久保城跡』解説板より)
※曲尺手(かねんて)
読み仮名がないと読めないレベル。
調べると、直角に曲げられた道のことみたいです。
城まで簡単に行けないようにしたということかなぁ。
石碑が静かにお出迎え。
右側の囲いの石碑には「秋葉山」と書かれてありました。
2.大聖寺に眠る 今川義元 胴塚(一色城跡)
案内板が四つ角に立ててあるので、安心して進むことができます。
とは言っても今日は、下見までしてくださった七種英康(さいくさ ひでやす)先生が先導。感謝。
牛久保城跡から、およそ徒歩5分。
「大聖寺」(だいしょうじ)さんに到着。
入って右側へ行くと、沢山の石仏。
この中に、今川義元が!?
と思ったらここではありませんでした。
以前この辺りは、一色城があった場所だそうです。
前の家々に目をやると、この地が少し高い場所にあることも分かります。
そして、いよいよ反対側にある義元の胴塚へ。
あれ?
木の上に一部だけ葉っぱの塊が。
鳥の巣?剪定?謎。
静かな胸の高鳴りを感じつつ、いざ胴塚へ。
ありました。
突き当たりに、今川義元のお墓。
ここには、ある秘密がありました。
織田信長との桶狭間合戦で敗れた今川義元。
家臣が亡骸を駿河へ連れて帰る途中、初夏故痛みが激しくなり、これ以上進むのは無理だと判断した家臣たち。
一旦、今川領であったここ大聖寺に埋葬することにしたそうです。
主君の亡骸が、敵に見つかることだけは何としても避けなければいけない。
まさか墓石に名前を刻むわけにもいかない。
そこで、近くにあった手水鉢(ちょうずばち)を墓石の一部として目印とし、自分達だけが分かるようにしたそう。
その手水鉢、お墓を横から見るとよく分かりました。
そんないきさつがあったとは、目の前にしてブルっと鳥肌ものでした。
「大聖寺」をあとにして、北東へ進むと「一色城跡」の碑が建っていまいた。
拡大しても分かりづらいですが、「一色城○○外壁の跡」という字が何とか読み取れました。
どのようなお城だったのか、今となっては土塁が少し残るだけで、もう分からないそうです。
3.牛久保八幡社
道中、味のある蔵がありました。
歴史を感じます。
数分で、牛久保八幡社に着きました。
↓牛久保史跡巡り地図。わかりやすいです。
牛久保の若葉祭
八幡社の創建は、奈良時代と伝えられ、仁徳天皇と応神天皇がお祀りされており、当時は若宮殿と呼ばれていました。
一色城主牧野成時(まきのしげとき=古白)が、ある年の4月8日に、この若宮殿に参詣した時、駿河の領主今川氏親より※馬見塚(まみづか=現豊橋市)に築城を命じられました。喜んだ古白は、社前の柏の葉で御神酒を献じて家臣と共に祝い、家紋を三ツ柏に改めました。
このとき、境内の若葉が照り映えているのを見て詠んだ古白の句
「きのうけふ(今日) 若葉なりしか 杉の森」
にちなみ、この祭を「若葉祭」と呼ぶようになりました。
古白はじめ、代々の城主は、若葉祭の時、領民の主だった者を城中に招いて酒食をふるまいました。酒に酔った領民たちは帰る途中ごろごろと路上に寝ころんでしまいました。
この様子を今に伝えているのが、祭の神幸行列(しんこうぎょうれつ)の最後尾を受持つ「やんよう神」の一行です。路上に寝ころぶ様子が「うじむし」に似ているところから、この祭は「うなごうじ祭」とも呼ばれています。―豊橋教育委員会―
愛知県指定無形民族文化財(平成21年1月23日指定)
(『牛久保八幡社』若葉祭解説板より)
※馬見塚に築城って、今の吉田城のことなんですね。
毎年4月上旬にある若葉祭。
古白絡みのお祭り、行ってみたい。
4.大林勘左衛門屋敷跡
いきなり”大林勘左衛門”さんという名前。
この方、牧野家の家老、山本勘助の養父らしい。
お!
山本勘助!?
駅にあった垂れ幕の人だ!
山本勘助、当初子がいなかった大林勘左衛門さんの養子になるも、実子ができたため、養子の縁を切ったのだとか。
う~ちょっと切ない。
で話を元に戻すと、山本勘助の養父、大林勘左衛門さんの家があった場所がここという訳です。
山本勘助も、ここで暮らしていたんですね。
丁度、新築を建てている真っ最中でした。
この跡地に住む人、それを知ってここを選んだのかなぁ?
石碑も案内も、残念ながらもうないようです。
5.長谷寺 (山本勘助の墓)
武田信玄にも仕えた山本勘助の墓がある「長谷寺」(ちょうこくじ)さんへ。
案内板に従って奥へ進むと、お墓がありました。
どうやらここには、山本勘助の遺髪(=髪の毛)が埋葬されているようです。
山本勘助の墓
戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は、明応9年(1500年)8月15日八名郡加茂村(豊橋市加茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていました。
勘助は15歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳の時に、武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家を離れて関東の地を歴遊し、45歳の時に甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕え、智謀をもって忠誠をつくし永禄4年(1561年)川中島の合戦で討死しました。
その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長国寺の念宗和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪塔だと伝えられています。―豊川市教育委員会―
豊川市指定史跡 昭和47年11月30日指定
(『長国寺』山本勘助の墓 解説板より)
ふと足元に目をやると、
(おや?これは手水鉢)
さきほど見てきた、今川義元のお墓に使われていたのと、似たサイズの手水鉢があるではないですか!
6.牧野成定廟
牧野成定(まきのなりさだ)…誰だっけ
あれ
頭の中がごちゃごちゃしてきた。
牧野氏は古白しか知らないわたしにとって、まだ人と名前が結びついておらず。
そういう時って、折角いろいろ聞いても、残念ながら頭に残らない。
ちょっと頭の中を整理。
古白との関係 | 城主 | 名前 |
---|---|---|
本人 | 一色城 | 牧野成時(しげとき)(=古白) |
子 | 一色城 牛久保城(築城) |
牧野成勝(しげかつ) |
孫 | 牛久保城 | 牧野保成(やすなり) |
ひ孫 | 牛久保城 | 牧野成定(なりさだ) |
この廟の成定は、古白のひ孫にあたるってことか。
それにしても、同じ「成」という名前を”しげ”と読んだり”なり”と読んだり、人名って難しい…。
名前を聞くのと、文字で見るのとでは、同一人物として一致しないのはこれが原因かもしれないなぁ。
いや、勉強不足が原因か。
牧野成定公廟
牧野成定(なりさだ)は、今川氏に叛(そむ)いた牛窪城主の牧野保成(やすなり)の後を継いで、弘治2年(1556年)頃に家督を継ぐことを今川氏より認められました。松平元康(後の徳川家康)の東三河侵攻に対して家臣らとともに抵抗しましたが、永禄9年(1566年)に今川方を離れ松平方に臣従しました。成定は同年に42歳で病死しましたが、その後牧野家は家康とともに関東へ移り、子の康成は上野大胡(うえのおおご=群馬県)の城主となり、孫の忠成は越後長峰(新潟県)を経て長岡に転封し、幕末に至るまで牧野家が藩主を務めました。
成定の遺体は光輝院の境内に葬られましたが、道路が開かれたことにより寺域が縮小され、現在では廟がこの場所に取り残されたような格好となっています。廟の墓碑は大垣二代藩主戸田氏信の妻となった忠成の娘(領秀院)が、成定の菩提を弔うために貞享元年(1684年)に建てたものです。また、廟前にある石灯籠二基は、子孫の長岡九代藩主牧野忠精が寛政8年(1796年)に寄進したものです。廟の奥にある天王社は、毎年4月7,8日に近い土・日曜日に行われる牛久保の若葉祭(県指定無形民俗文化財)の神輿行列のお旅所に現在なっており、祭礼ではこの廟の前でも笹踊りが奉納されます。―豊川市教育委員会―
豊川市指定史跡 昭和47年11月30日指定
(『牧野成定公廟』解説板より)
合掌。
↓廟は大通りに面した所にありました。
↓牧野成定公廟を後にし、歩いて行くと、可愛い看板猫に遭遇。
↓こちらは和菓子屋さんでしょうか。
「かんすけおこし」どんなお菓子か気になります。
お?左三つ巴紋♪
全然史跡巡りには関係ありませんが、理美容おかめ館さんのガラスの白雪姫?のシュールさに釘付け。
なんで泣いてるのか…気になるわぁ。
7.善光庵 (けさがけ地蔵)
いろんなお店に気を取られつつも、善光庵さんに到着。
案内板がないので、知らないと通り過ぎてしまいます。
七種先生の話によると、
「野武士に襲われた牧野保成(=古白の孫)の家臣渡辺太郎左衛門の身代わりとなって切られた『けさかけ地蔵と伝えられています。」
とのことでした。
断面図。
包丁で指を切っただけでもゾクッとするわたしですが、これは想像するだけで全身鳥肌が立ちました。
相当な勢いですよね…。
ブルッ
8.地名と高低差
これはどんなお店だったか覚えていませんが、珍しい家紋を見つけました。
源氏車に扇?
出ました!高低差!
小学校を左に見た写真なので、国土地理院地図は反対から見た図ですが、濃い緑の高いところから、薄い緑の低いところへの高低差が見て取れます。
ガクッと下がったところの交差点名は、「城跡」Shiroato!
その城跡交差点を左に曲がると、拡大しても分かりづらいですが、「城跡」という地名でした。
その目と鼻の先には「城下」という地名も。
遺構が残っていなくても、地名としてしっかり残っているのが嬉しいです。
豊川市牛久保町。
飯田線の電車に乗って、ノスタルジックな小旅行でもありました。
豊川(とよがわ)に別れを告げ、豊橋駅周辺を散策。
学生時代振り?
昔の思い出を一生懸命探していました。
よく行った「村さ来」もうなかった~(笑)。
ご褒美のミュースカイで帰路につきました。
何のご褒美なんだか(笑)
9.地形図
+プラスのカーソル位置がおおよその所在地です。
左上から右下にかけての断面図。
牛久保城は高い位置にあったことが、よくわかります。
お城情報
名称
牛久保城(うしくぼじょう)
別名
牛窪城(うしくぼじょう)
城地種類
平城
築城年代
享禄2年(1529年)
築城者
牧野成勝(諸説あり)
主な城主
牧野氏、荒尾成久
遺構
石碑のみ
所在地
〒442-0826 愛知県豊川市牛久保町城跡
開城時間・休城日・入城料
該当なし
アクセス
牛久保城跡
【電車】 JR飯田線「牛久保駅」から徒歩1~2分
(※踏切を渡ります)
※私たちが見学した時の情報です。
最新情報と異なる可能性がありますので、公式情報等をご確認ください。