灰取街道との出会い
きっかけは『マチイロ』アプリ
ときどき利用している、スマホアプリ『マチイロ』。
最近は、いろんな自治体の広報がスマホで簡単に見られるんですね!
私は、以下の愛知県内の広報を見て情報収集しています。
とよはし、せと、おかざき、しんしろ、北名古屋、かりや、へきなん、たはら
その中で、北名古屋市広報に掲載されていた『北名古屋市ウォーキングマップ』の存在が私の心に引っかかりました。
『北名古屋市ウオーキングマップ』
簡単にいうと、北名古屋市のテーマ別散歩地図。
写真と簡単な解説がついています。
市のHPでも地図を見ることはできますが、冊子を無料配布しているようでしたので、北名古屋市健康ドーム(内保健センター)まで貰いに行ってきました。
初めて聞く街道名
ペラペラめくっていると、あるところで目が釘付けに。
それは…灰取街道 道標。
ハイトリカイドウ…う~ん、初めて聞く街道名だなぁ。
どんな街道なんだろう?
「灰取街道は、清須市から小牧市へ続く旧街道です。」
解説は以上のみ。
よく分からない…
現場に行けば何か手がかりがあるかも?
とりあえず道標(お地蔵様)に会いに行きました。
意表を突かれた 道標
このサイズ、ある意味衝撃的!
え?こんなに小さかったの??
車で通っていたら見過ごしそうな、とても可愛らしいサイズの石仏道標。
サイズとは裏腹に、今なお大切に残されていることに、とても大きな感動を覚えました。
道標の文字を見ると、どちらも右方面の案内!
うっかり岩倉犬山方面を左に行っちゃいそう。
さて、このお地蔵様と出会ってから、私の心に住み着いて離れないハイトリカイドウの存在。
灰取街道とは何ぞやということで、いろいろと調べてみました。
図書館、ネット、古地図、書店、昭和日常博物館、小牧市役所…。
ざっくり調べてわかったこと
- 織田信長や秀吉が使っていた道と伝えられている
- 小牧の土壌改良の為の灰を、海部郡(名古屋の西隣)まで買いに行った道。よく灰がこぼれ落ちたこともあり、灰取街道との名前がついた
- 灰取街道は、通称名の一つ
- 通行する人の目的地や、地域によって、街道の呼び方に違いがあった ということ
- 灰取街道
- 清須街道(清須道・清須海道)
- 小牧街道(小牧道)
- 藤堂街道
- 巡検街道 など
大まかな内容と、ぼんやりとルートがわかりかけたので、あとの情報は現地で収集しよう!
ということで出発進行~!!
見学記録
愛知県清須市、清州城南にある、五条橋の東辺りからスタート。
御鍬神社(おくわじんじゃ)
このお方は誰なのでしょう。
街のいたるところから、清州城が顔を出してくれます。嬉しいですね。
天王神社
民家の壁沿いに、石仏道標がありました。
家に帰って写真を見ていて気づいたので、現地で私は手を合わせられず…残念。
愛宕社
こちらの愛宕社、信長の時代に清須城の鬼門として建てられたのだとか。
以前、清須城の総堀を歩いた時に、こちらに立ち寄ったことを思い出しました。
鳥居が素敵です。
神明宮
再び灰取街道に戻り、神明宮へ。
灰取街道の唯一の案内板でしょうか。嬉しいですね。
灰取街道(はいとりかいどう)解説
清洲から小牧に通ずる小牧街道を通称「灰取街道」と呼んだ。
海部郡方面から灰を積んだ荷車がよく通り、灰が道にこぼれたことからその名が生まれた。また、江戸時代には津32万石の藤堂候が参勤交代の途次、小牧三ツ渕の正眼寺(しょうげんじ)へ参詣のため通られたので「藤堂街道」とも呼んだ。
宝暦年間(1750年頃)「阿武呂木(あぶろぎ)」という諸国行脚の六部が白弓橋近くで行き倒れその供養地蔵が旧街道の位置に茨塚として建っており、昔は「おこり」(熱病のこと)に霊験があるといわれた。
この街道は今も野田町から天桂寺東までは昔の名残をとどめるが、それより北はほとんど面影がなくなった。
清須市名所案内板「灰取街道」案内板より
往時を偲ばせるお宅が残っていると、自然と戦国や江戸時代に思いを馳せることができて嬉しいです。
お地蔵様がみえると、街道だったのかな、村の出入り口だったのかな、と想像できて良いですね。
高札(地名)
高札(こうさつ)という地名にやってきました。
今の高札。
蟲祭り?豊作祈願とかかなぁ
茨塚
大きな通り22号線を通り過ぎ、白弓という場所まで来ました。
街道らしい痕跡が全く無いところに、いきなり現れました。道標!
店長が声を掛けてくれなきゃ、完全に見逃していました。
あぶないあぶない。
あ!これが、神明社にあった街道の案内板に書かれていた、阿武路木さんのお地蔵様か。
茨塚・あぶるぎ地蔵尊
尾州春日井郡下之郷村に有り宝暦17年(1761年)
平成18年8月建立
諸国行脚の巡礼 灰取街道通行中 此処にて、病を生し行倒となりて死にたり。
後に弥勒寺村の老婆某或夜此の六部来りて我れ無縁の仏となりて浮かばれず、今尚苦みて迷えり、若し我を祭る人あらば、我れは病気平癒の願望を成就せしめんと告げたる夢を見、
乃ちに此の処に地蔵尊一体祭れるものなりと云う
四つ角の一角に、ひっそりと祀られています。
白弓橋
田んぼや工場の多いこの辺りは、街道消滅区間のようです。
面影は見つけられませんが、白弓橋は渡りたいですね。
白弓橋工事中!うぅ…
通行止めの期間は、令和元年11月18日~3年9月下旬となっています。
白弓橋の北側に掛かっている【ながれ橋】から川を渡ります。
そんなに広い川幅ではないようです。
ひたすら工場と田んぼ・畑ゾーン(消失区間)を歩きます。
きっとこちらの方角に、道が拓かれていたんだなと想像しながら…。
これはもしや大八車の車輪?
青野の道標
灰取街道に興味をもったきっかけの、道標まで来ました。
どうやら、犬山という字が一番左に小さく漢字表記されているのは、後から追加されたということのようです。
つまり、この灰取街道があった時代には、まだ犬山方面への道(岩倉街道)が開けてなかった可能性もあるということなのだとか。
灰取街道は、この地域では最も古くからある道ということになるのでしょうか。
入手した資料に、この道標らしきお地蔵様が写っています。
写真一枚で、本当に多くのことを語ってくれますね。
こちらは昭和33年の写真。
もっと昔の戦国の頃には、どんなだったんだろう。
この道を、信長も馬で走ったのかなぁ。
(灰取街道前半はここまで)
おにぎりで気づく
別日、日の出と共に灰取街道後半スタート。
青野の道標(かわいいお地蔵様)から米野あたりまで、消滅区間らしいので飛ばしました。
その飛ばした区間内にあるピアゴ西春店を、灰取街道は斜めに通過していたようです。
信長たちがそこを通っていたかもしれないなんて、買い物をする現代人は知る由もなく。
そうやって知らない過去や歴史、事実、これからもどんどん知りたいな。
さて、米野の交差点。
毎回、なにげにご飯写真を撮っているのですが、今回は撮ってからビックリしました。
今まであった交差点の建物(昭和41年頃オープンのスーパーマーケット)が、ごっそり無くなっていました。
蛤橋
そのスーパーマーケット跡地の脇に、橋の跡があります。
ハマグリ橋。
昔は蛤がわんさかとれたんでしょうかね。
戦前は、酒屋、饅頭屋、煙草屋があり、若者がこの橋の辺りにたむろしていたらしいです。
面影はありませんが、何となく想像してみました。
生田橋
蛤橋を北上すると生田橋。
かつては街道で賑わっていた道も、交差するもう一方の道に主の座を譲っています。
時代の移り変わりを感じます。
名古屋行の始発電車を見送ります。
この五条川沿いの道は、歩道がないので少々危険です。
車の往来も少ない朝5時台ならオススメします。
いくつも出会う馬頭観音や石仏。
ありがとうございますと手を合わせ…
ん?何かおかしい…
え?マジックで描いてある?
見えやすいようにという親切心からなのか?う~ん・・・複雑
賢林寺
賢林寺に到着。
あ、またあの人だ。
私の行く先々におられますが、どんなお方なのか謎。
どこかの会社のオブジェの石も、歴史的なものに見えてしまう病になりかけている私です。
店長とは、度々選ぶ道の相違があります。
しかし、店長には古地図アプリという強い味方がついているので、強く言えない私。
石仏道標
少し前は、お地蔵様に手を合わせるのが、何となくくすぐったい感じでした。
でも街道巡りをする中で、いつの間にか(ありがとうございます)と思う気持ちの方が大きくなってきました。
日吉神社
この辺りは小木(こき)という地名。
平出政秀(信長の世話役のじい)の小木城がこの地にあったがようですが、場所は不明とのこと。
ここの樹齢500年のクスノキは、時代の移り変わりを静かに見ている目撃者ですね。
この辺りは、とても沢山のお寺があります。
2回目の街道歩きの際には、ゆっくり参拝させていただきたいです。
宇都宮古墳・神社
赤い道が灰取街道ですが、古墳があるようなので、ちょっと寄り道。
宇都宮神社
宇都宮古墳
石仏群
石仏群が出迎えてくれました。
ハッ!
貴方は一体どなたですか。
どうかお名前だけでも教えてください。夢に出てきそう
馬頭観音様にも手を合わせ。
空が騒がしいなと見上げると、飛行機。
そうか、近くに豊山の名古屋空港があるんだったな。結構歩いたなぁ。
あ!小牧山城!
拡大!
織田信長が、清須から小牧山城へ引っ越した際に通ったであろう道。
実感!
堀の内公園
公園内からも、小牧山城を見ることができました。
小牧城下町(上御園-かみみその-遺跡)
ここは、永禄6年(1563年)、織田信長が小牧山に新たな城を築き、清須から居城を移した際に、山の南側に建設した城下町の中に位置します。 城下町は、東西、南北に街路を配置して計画的に築かれ、このあたりは、商工業者が集住した区域でした。 小牧堀の内 土地区画整理事業が行われた範囲は、紺屋町、鍛冶屋町、新町にあたると推定されています。 区画整理前に実施した上御園遺跡の発掘調査では、街路跡、掘立柱建物跡、溝跡、井戸跡などの遺構とともに、瀬戸美濃産土器(鍋、釜、皿他)、鍛冶関連品(坩堝、羽口他)などの遺物が出土しました。 確認した遺構の分布状況から、街路沿いに建物が建ち、街路から30~35mまでは生活空間で井戸などがあり、さらにその奥は畑や庭であったという町の様子が明らかになりました。 信長は、永禄10年には岐阜へ移りましたが、調査を実施した範囲では、江戸時代初め頃まで町が存続していた部分があったことがわかりました。
堀の内公園 案内板より
信長がつくった城下町、江戸時代初期までこの辺りにあったんですね。
どんなにぎわいだったのかなぁ。
石仏道標
まるで一里塚のような雰囲気の一帯。
きれいな状態の馬頭観音様が祀られていました。
拡大してみると、馬頭の部分もよく残っていますね。
左なごやと読めます。
常普請橋
かつての常普請橋は、今ある場所よりもう少し北にあったようです。
遠くに小牧山城を眺めながら、気分よくウォーキング。
お城は山の上など高い所にあると、みんなが見えて良いですね。
力がみなぎってきます。
西町の道標
かなり年季が入っていて、判読が難しいです。
西町の道標を東方へ歩いて行きます。
左の道に入っていくと…
目的地へ到着
やった~~~!灰取街道の起点に到着しました。
清須道と書いてあるのも、小牧からこの街道を見れば、清須行きの街道なので、そう呼ばれるのも納得です。
戦国時代には、信長たちが清須と小牧を行き来するのにも利用していたようであり、江戸時代には、宿場や他の街道をつないだり、灰を始め多くの運搬に利用したりと、少しずつルートや用途も変わってきていることもわかりました。
まだ残っている謎解きを楽しみにしながら、またいつか歩きたいと思います。