織田信長と今川義元の戦い、桶狭間合戦。
桶狭間で亡くなる二日前の5月17日、義元は愛知県知立市へ侵攻したんだとか。
知立城、牛田城、今崎城の三城。
恥ずかしながら、知立市は「あんまき」と「かきつばた」の印象しかなかった私ですが、戦国時代だけでなく、様々な時代の歴史が色濃く残っていることは想像もしていませんでした。
目次
見学記録
出発は名鉄知立駅。
学生時代よく利用した駅なので、開発中の駅に驚き。
2~30年でこんなに変化していくのに、何百年も前の歴史と出会えるなんて、何だか奇跡にも近いような気がしてきます。
知立駅から徒歩5分。
リリオ・コンサートホールの旧東海道が通る交差点。
北西へ進むと、刈谷道という信号機がありました。
これは、あの水野家の刈谷城へ続く道なのだそう。
知立城
かつて、知立城のあった場所は、公園になっていました。
もとは、知立神社の神主である永見氏の居城。
総持寺(長勝院 於万の方生誕地)
於万の方は、家康との間に生まれた結城秀康のお母さん。
その方の誕生した地ということで、石碑がありました。
総持寺跡大イチョウ
市指定文化財(天然記念物) 昭和40年1月1日指定
イチョウ科の落葉喬木で雌木である。
イチョウは、病虫害が少なく火にも強いため、神社寺院に植えられて巨木となって残る例が多くこの木もその一つである。
樹齢200余年経た今も樹勢いまだ衰えていない。
総持寺は、嘉祥年中(845~851年)に創建されたと伝えられ、知立神社の神宮寺と考えられてきた。戦国時代に消失したが、学頭玉泉坊がここに再建され、承応2年(1653年)寛永寺末寺となり総持寺に改められた。
明治5年(1872年)廃寺となったが、総持寺はその後大正15年(1926年)に西町新川に再建され、現在に至っている。
知立市教育委員会 令和元年9月
牛田城
場所は変わり、知立駅から一駅離れた牛田駅周辺。
アパート名にもあるように、ここはまさに丘。
周辺より、少し小高いところに位置しています。
よくわかる高低差
牛田城跡
そんな小高いところに、牛田城の跡がありました。
牛田城阯
牛田城跡
牛田城は、戦国時代の天文年間(1532~1555年)に、牛田玄蕃頭政興が主君刈谷城主水野忠政の命を受けて築城した城とされる。
今川氏が西三河に勢力を伸張していた当時、水野氏にとって、牛田城の南側を流れる猿渡川は自領を守るための生命線であり、今川。松平氏に対する備えとしてこの城を置いた。
城は永禄3年(1560年)の今川義元侵攻の際に攻め落とされたとも、義元死後廃されたとも伝えられているが、この今川氏との攻防の際、牛田政興の活躍は見事であったという。
なお、牛田町西教寺には、政興の位牌が祀られている。
知立市教育委員会
川や崖っぷちの高低差を利用して、正に天然の要塞。
猿渡川
かつては、この道のずっと奥の方まで、川幅があったようなのです。
少し低くなっていたので、なんとなく想像できました。
それにしても、かなり大きな川だったんですね。
猿渡川は、猿が渡った伝説から名付けられたのだとか。
近隣の工場の入り口にも、門番のお猿がいました。
今崎城阯(来迎寺古城)
今崎城
今崎城に関する文献は見当たらないが、来迎寺町の地名に古城、足軽等があり、往昔の俤をとどめている。
八橋町の葦香城と同時代にあった城のようで、古刹来迎寺の守護に任じていたと思われる。
来迎寺内解説板より
地図で確認してみると、ありました。
古城、足軽、的場などなど。
さむらい塚
来迎寺内の、向かって右手方向に裏道へ続く通路がありました。
そこから、墓地や来迎寺小学校の校庭沿いに歩いて行くと、畑の中にこんもり高い場所が見えてきます。
上がってみると、石碑がありました。
古城塚(さむらい塚)
市指定文化財(史跡) 昭和40年1月1日指定
この地には「今崎城」と呼ぶ城があったと伝えられ、来迎寺付近には、現在も「古城」「足軽」など城に関する地名が残っている。
この塚は、永禄3年(1560年)今崎城が今川勢に攻められ落城した際、城を守り戦死した織田勢の武士を埋葬するために築かれたものと伝えられ、現在も地元の方により大切に守られている。
明治の中頃、この付近から中国の唐・宋代の古銭30余貫が出土し、昭和元年にも36貫ほど出土した。
知立市教育委員会
桶狭間合戦は織田方の勝利ではあるものの、その影にはこうして幾つもの命が消えていったんですね…。
次項では、周辺の史跡を紹介します。