鎌倉時代。三河地方の浄土真宗の最古の念仏道場として残る、太子堂(別名 柳堂)。
戦国時代。三河一向一揆の際には徳川家康は難を逃れるため、この寺に身を寄せたとあります。
この歴史を目の当たりにし、言葉をなくしてしまうほどの深い感動がありました。
三河一向一揆と妙源寺
妙源寺
三河一向一揆では家康方に味方し、家康も本寺に難を避けたと伝えられます。
岡崎観光きらり百選№27
このため、以前から松平氏から崇敬されていたこともあり、家康から”源”の一字を賜り、それまでの”明眼寺”を”妙源寺”に改めたといいます。
重文の鎌倉時代の柳堂・善光寺如来絵伝など多くの寺宝があるほか、本多忠豊、高木主水、平岩親吉、長坂血槍九郎の墓があります。
ここ妙源寺は、浄土真宗高田派。
対して、浄土真宗本願寺派(一向宗)は次第に大きな勢力となり、家康と対立し一揆が勃発してしまったんですね。
墓所
太子堂の奥にある墓所には、平岩親吉、本多忠豊(本多忠勝 祖父)、本多忠高(本多忠勝 父)、高木清秀(徳川十六神将)、安藤直次、本多光太郎のお墓があります。
太子堂(柳堂)国の重要文化財
本堂の左側にある太子堂。
別名柳堂の名前の由来となった柳が、お堂の前にあるようなのですが…
私は、帰ってからこの事実を知りました。
国指定重要文化財 妙源寺
建造物
妙源寺柳堂(附厨子一基、須弥壇一具、棟札)妙源寺は、三河真宗最初の道場と言われる。
正嘉2年(1285)の創建で、開基は河内区に阿倍野から移り在地領主となった安藤薩摩守信平である。柳堂は安藤氏が奉持した聖徳太子御直作の尊像を安置した太子堂と伝わる。
堂前に柳の大樹があったので柳堂と称した。
建立年代は明らかではないが、残存する棟札によると、現在の堂は正和3年(1314)から慶長18年(1613)までの再建と考えられる。
三間四方、寄棟造、檜皮葺、向拝一間付で、内部は仏壇表に禅宗様須弥壇を置き、その上に一間入母屋造の厨子を安置し、簡素な棹縁天井が低く張られている。
様式的には15世紀前半(室町時代)のものであり、浄土真宗寺院の初期の建築様式がよく残る、きわめて貴重な建造物である。
明治36年4月15日指定絵画
絹本著色善光寺如来絵伝 三幅
絹本著色法然上人絵伝 三幅
絹本著色親鸞聖人絵伝 三幅各絵伝とも大和絵の画風を伝え、霞の巧みな表現など優れた描写をみせる。
鎌倉時代の制作と推定される。
大正7年4月8日指定絵画
絹本著色光明本尊 三幅
鎌倉時代の作。
後世の光明本尊は一幅後世を定型とするが、本図は三幅構成をとっており、初期的様相をうかがわせる点で貴重である。
平成26年8月21日指定他に岡崎市指定文化財13件
岡崎市教育委員会
国の重要文化財に指定されている太子堂(柳堂)。
阿弥陀如来や聖徳太子を祀るお堂として、1314年に再建されたとあります。
法宝物の展示が毎年8月7~8日にあるようです。
17歳の聖徳太子像があるみたい
親鸞聖人御用水
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人。
そして、ここ妙源寺は、三河の浄土真宗はじまりの地とされているようです。
ここから三河全域に浄土真宗が広まっていったんですね。
親鸞聖人が、こちらの井戸水を飲まれたのでしょうか!
石碑がありましたが、解説などはありませんでした。
本堂と門
駐車場
妙源寺正面の門に、駐車場案内の看板がありました。