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近代的なのに聖徳太子や家康と深い関係をもつ上宮寺|愛知県岡崎市

上宮寺本堂
目次

驚く歴史がいっぱい

開創はナント聖徳太子!

上宮寺 解説版

岡崎市指定文化財 史跡 上宮寺境内地

上宮寺は、寺伝によれば聖徳太子の開基である。
初め天台宗で第23代住持蓮行れんぎょうのときに真宗に改め、15世紀中葉に第30代如光が高田派より本願寺派に改派した。
勝鬘寺(針崎町)・本證寺(安城市)と共に真宗本願寺派三河三ヶ寺と称され、三河・尾張・美濃・伊勢で末寺・道場105をもつ中本山として、大きな勢力を誇った。

17世紀初頭の絵図によれば、中世の本寺は、北東南を妙覚池に囲まれた方形の平地上に建ち、三方には土塁と堀がめぐらされ、西にも土塁があった。
その西の塀と溝に囲まれた区画に寺内町があり、全体として守護不入の特権が認められていた。

永禄6~7年(1563~4)、地域支配権の確立をはかる徳川家康と守護不入特権をめぐって対立し、三河一向一揆の拠点となった。
一揆敗北後の本願寺派寺院追放命令によって、寺内は破却されたが、天正13年(1585)に再興が認められた。
寺内には再興に尽力した松月院釋尼妙春(芳春院妙西尼)の墓がある。

17世紀中葉の矢作川改修や、妙覚池埋め立て工事によって、周囲の地形は大きく変わっているが、東方の土塁跡などから往時を偲ぶことができる。

昭和37年6月15日指定 岡崎市教育委員会

東方に土塁跡?
探してみましたが、残念ながら見当たりませんでした。
もしかしたら、この案内板が建ったのが昭和37年のようなので、その後消滅してしまったのでしょうか。
それとも、私が見つけられなかっただけなのでしょうか…。

こちら発祥の名字とは? そして納得の家紋

推古天皇6年(598)、この三河の地に仏法を伝えるため聖徳太子がみえられました。
太子は仏法弘通にふさわしい場所をさがしていたところ、乗っていた車が田に落ち込む難儀がおきました。
家来たちはあわててなにかしようとしましたが、深くはまって全く持ち上がりません。

そのとき通りかかった男が、道ばたの夕顔ゆうごんのつるを落ちた車輪にかけ、力をふるってみごと車を引き上げました。
太子はとても喜び男に名を尋ねましたが、これといった名前はないと男はこたえました。
すると太子は「それではこれより太田おおたを姓とし、力丸りきまると名のるがいい」と男に姓名を与えました。

太田姓は全国に多くありますが、この力丸を祖とする三河太田は、太子下賜かしの特別な家紋を受け継いでいます。
片輪車に夕顔の蔓(半車に夕顔)」という紋様で、物語の通り太子をたすけたことを表す家紋です。

境内には、その太田の先祖のひとり「太田善太夫吉政」の墓碑も伝わっています。
太田吉政は戦国期に徳川家に仕えた旗本で、墓碑はその200回忌に子孫である善太夫好長たかながが建立したものです。

さて力丸は、よき地をさがしていた太子を自らが住む志賀須香しがすかの里へ案内しました。
太子はそこが霊地であるとみて、自身の木像を安置し、ここより三河に仏法ひろまれと願いをかけられました。
これが上宮寺創建の物語です。

この三河太田と上宮寺との縁を顕彰するため、令和4年(2022)に三河太田発祥の碑が建立されました。

弘通(ぐずう、ぐつう)…仏教が広く世に行われること。また、仏教を普及させること。(辞書調べ)

すごい!!
この逸話あっての家紋なんですね!

夕顔を”ゆうごん”と読むのは、方言なんでしょうか。
それはそうと、夕顔が瓜のような実がなり、干ぴょうの原料であると知り驚きました。

この家紋が聖徳太子と縁のある証なのね。

三河一向一揆 妙春尼の尽力

永禄5年(1562)秋、徳川家康の家臣が上宮寺から兵糧米を強奪しようとした。
これが一つの発端となり、本願寺門徒を中心とする三河一向一揆がはじまった。
一揆は1年半近く続いたが、最後は寺方が疲弊して家康と和議を結んだ。
しかしこれは実質の降伏であり、僧侶は国外退去、寺院は破却という処分にあい、三河の地では以後20年間本願寺系寺院の禁教がなされた。

徳川家康が本願寺系寺院をようやく赦免したのは天正11年(1593)であるが、それを願い出たのが松月院妙春尼みょうしゅんに(妙西尼)であった。
彼女は石川安芸守清兼の後室で家康の近臣石川日向守家成の母であるが、家康の母於大とは姉妹であり、家康の乳母をも勤めた女性である。
そのため家康に強い影響力を持っていた。
と同時に熱心な本願寺門徒であり、三河の僧侶衆が退去中、代りに国内に残った門徒衆を束ねる役割をになっていた。
当寺ではそのように三河の本願寺教団の赦免・再興に尽力した妙春尼を偲ぶため遺髪をもって墓とし、後世に伝えている。

どの時代も、母親乳母強し。

不断桜という名の平和

上宮寺 解説版
解説版と不断桜

三河一向一揆は主従・親子・兄弟に骨肉の争いをもたらしたが、天正13年(1585)、ようやく徳川家康は赦免を決意し、当山住職尊祐そんゆうほか関係者一同を伏見城下の陣屋に招いて寺領安堵の黒印状を下した。
その折り家康は尊祐に対し、伊勢国白子ノ郷(現三重県鈴鹿市)の徳川家累代の祈願所、真言宗子安観音寺に立ち寄り、今回の吉報を本尊白衣観音に言上すべき旨を托した。
命をうけた尊祐は早速同寺を訪れ住職に伝えたところ、今回の家康公の御はからいは天下泰平のあかしと喜び、尊祐に庭前の名木「不断桜」の実ばえの若木を分かちあたえてその労をねぎらったと伝えられている。
ちなみに白子不断桜しろこのふだんざくらは、8世紀半ば雷火の為に消失した同寺伽藍跡に芽生えたとされ、現在でも国の天然記念物としてその名をひろく知られている。

さて、尊祐によって当山にもたらされた実ばえの若木は、仏の御加護によるためか以来400数十年、昭和の火災をもくぐり抜け今日に至り、相変わらず11月より4月まで四季を通じて花を結び、不断桜のほまれを保っている。

花の香の たえぬ恵みの 御堂かな  五城

五城:数藤斧三郎の俳名

一揆からの復興

一向一揆後の復興に際して上宮寺では段階的に施設を再建している。
一度目の仮御堂をへて二度目の再建がなされたのが寛永6年(1629)であった。
その折りに助力したのが松泉院妙怡尼みょうたいにである。
妙怡尼は初代岡崎藩主本多康重の妻で、二代藩主本多康紀の母である。
この妙怡尼は一揆後の復興に尽力した妙春尼の息子石川家成の娘であり、祖母と同じ熱心な本願寺門徒であった。

再建にあたり妙怡尼は早世した娘の供養のためにと梵鐘を寄進した。
鋳造に際しては鐘の材料として黄金のかんざしなどの装身具も出し、侍女たちもそれにならった。
そのため金の含有量が多く、大きさの割に重量のある梵鐘になったと伝えられている。

鐘は大正時代のはじめまで時の鐘をついていたが、現在は当山宝物殿に安置されている。

妙怡尼は再建の2年後にあたる、寛永8年(1831)に亡くなり、当山ではその遺骨を譲り受け伝えている。

何としたことか!本堂の左側に宝物殿があるのですが、行きそびれました。
拝観は事前の予約が要るようです。

妙怡尼は、妙春尼のお孫さん。

明治の逸材ゆかりの地

上宮寺 数藤教授

数藤斧三郎は明治・大正時代の一高(現東京大学)の数学教授である。
と同時に正岡子規や斎藤茂吉に師事し、高濱虚子の「ホトトギス」の同人として「五城」の俳名をもって知られていた。

大正はじめの夏、数藤は佐々木月樵をたずねて当山を訪れ、一ヶ月余逗留して多年の数学研究の成果をまとめた。
その間本堂裏の香部屋にこもり、鉛筆一本を握りしめて机上の半紙一枚をみつめ、無限の広がりをもつ数学のゆくえを追いつづける苦闘の時が昼夜続いたという。
そのような数藤を安らかな夢路にさそったのは夜明けを告げる余韻鰯鰯の妙なる鐘の音であり、その音色が煩悶解明の道を幾たびかひらくようすがとなった。

自らの仕事を成し終え帰京の日を迎えた朝、数藤は時の鐘をつく機会を与えられた。
一鐘一打そのつど明けゆく空、次第にひろがりを見せる空間に於いて鐘の音に魂を得るが如く、音もなく花びらを散らす百日紅の老木。大悟一番、思わず口から流れ出た次の一句、虚子をして、「花鳥諷詠の妙、ここに極まる」と絶賛したという。

百日紅さるすべり 鐘つけば散る あしたかな  五城

一高いちこう:第一高等学校の略(現在の東京大学の前身)
香部屋こうべや:本願寺で、出仕の僧が控えている部屋、香房。
余韻鰯鰯よいんじゃくじゃく:物事が終わった後まで残るさま。正しくは余韻嫋嫋か。

建物

駐車場

今回伺ったのが行事のある日と重なったため、駐車場には沢山の車がありました。
しかし、50台程の駐車スペースがあるため、十分ゆとりをもって停めることができました。

その他 情報

住所

〒444-0936
愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木3

上宮寺 山門

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この記事を書いた人

歴史初心者だからこそ気になるポイント、初めて出会う感動、少しずつ理解が深まる喜びなどを、私目線で気ままにつぶやいてます♪

三河生まれ尾張在住
好きなことばは『三河武士』
ディライト・グッズ副店長 & Web屋助手

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