須原宿
初めて訪れるのに、どこかノスタルジックで懐かしい感じがする須原宿。
幸田露伴、島崎藤村、正岡子規など、文豪達と時を隔てて、共に歩いた気分でもありました。
一里塚跡
須原駅から目と鼻の先、一里塚跡がありました。
ざっくり江戸へは300km、京都へは228km。
どちらも道のりは長いわね。
幸田露伴
須原駅舎の正面にある、大きな石碑が目を引きます。
幸田露伴が須原を舞台に、作品を残していたんですね。
幸田露伴と須原宿
文豪幸田露伴は明治22年の冬の頃木曽路を旅して須原に泊る
彼は此の地を訪ねた縁を基にその出世作小説風流仏を著す時に22歳
ここに文中の一部を抜粋し記念碑として文豪露伴を偲ぶ
「名物に甘き物ありて空腹に須原のとろゝ汁殊の外妙なるに飯幾杯か滑り込ませたる
平成5年10月吉日 大桑村観光協会 大桑村公民館須原分館
道中日記注け終まひて膝を崩して語る相宿の友もなき珠運微なる埋火に脚を烘りつくねんとして櫓の上に首投かけうつらうつらとなる所へ此方をさして来る足音しとやかなるはさき程の下女ならず御免なされと襖越しの声に胸ときめかし為かけたる欠伸を半分噛かみて何とも知れぬ返辞をすれば唐紙するすると開き丁寧に辞義して冬の日の木曽路嘸や御疲に御座りませうが是は当所の花漬今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中色もあせずにおりまする梅桃桜のあだくらべ御意に入りましたら都の御方へ御土産にと心憎き愛嬌言葉商買の艶とてなまめかしく口のきゝぶりに利発あらはれ世馴れて渋らずさりとて軽佻にもなきとりなし持ち来りし包静にひらきて二箱三箱差し出す手つきのしほらしさに。」以下略(大桑村観光協会)
青空文庫(著作権の消滅した作品などを無料で読めるアプリ)で読んでみると、こちらの石碑の引用文は省略している部分があるようです。
しかし、こういうきっかけで出会う作品もまた、いいものですね。
作中に、須原のとろろ汁と花漬が登場。
食べたい!
風情のある通りを行ってみたい気もしますが…中山道を歩きます。
須原駅の裏手にある鹿島神社の名が刻まれた常夜灯。
サイドの文言をよく見ると、”愛知縣愛知郡熱田白鳥町寄付主田中某”と読める気がします。
私と同じ、愛知から来たのかしら。
晩ごはんで『あすなろ食堂』さんへおじゃましました。
沁み入るお味と、店主やお客さんたちの温かみに、疲れた身体が芯から癒されました。
また訪れたいお店です♡
脇本陣
脇本陣で、驚きの事実が発覚。
旧脇本陣西尾家の沿革
旧脇本陣西尾家の祖は代々菅原の氏を名乗る
続柄にして大永、天文年間(1522~1554年)の頃、此の地信濃の国 須原に住し地域の開拓に力を尽す
西尾家は木曽屈指の旧家にして木曽家の家臣として重きを為す殊に西尾丹波守は馬術又武芸に優れ木曽義昌公の信任極めて厚く鳥居峠又妻籠城の合戦等に参画転戦しその武功著しきものありしと伝えられる天正18年木曽義昌公は豊臣秀吉の命により突然下総の国網戸に移封せらるるも西尾家は以前此の地に留まりその後は木曽代官山村家に仕え尾張藩の山林取締役等の重責を担う
慶長5年(1600年)中仙道宿場の出来るに共なひ須原宿の脇本陣問屋庄屋を兼ね宿駅人として重きを為し地域の発展に貢献せり
その後寛延慶応の二度に亘る火災に遭遇し記録の一部を焼失するも今尚当時の隆昌を物語るに足る古文書、書画什器等多数蔵することは文化財として貴重な存在である
酒造業は古るく江戸時代の創業にして現在に到る
大桑村
現在は西尾酒造
木曽の桟というお酒、10年程前から時々いただいております。
まさかまさか、ここ須原のお酒だったとは!!!!!
とても嬉しい再会と発見でした。
呑んべえ杉浦の今日一番の驚きポイントがココでした(笑)
正岡子規
寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月いつるほとの 空たにもなし
子規
島崎藤村
島崎藤村著『ある女の生涯』に登場する須原(清水医院)。
清水医院跡ということで、こちらには建物は残っていません。
現在は明治村(という博物館)に建物が残されているようです。
明治村のHPによると、明治30年(1897)頃の建築物だということです。
清水医院跡
文豪 島崎藤村による「ある女の生涯」の舞台となった清水(蜂谷)医院跡。
解説版より
現在、明治の医院建築として、愛知県犬山市明治村に移築され保存されている。
明治の女性の壮絶な人生…
心にズシンと響く作品だったわ
『須原ばねそ』とは?
民謡『須原ばねそ』発祥の地なのだそう。
『ばねそ』は、はね踊る衆という意味があるようで、以下の三種類を総称したアカペラ盆踊り。
- よいこれ
- 竹の切株
- 甚句
「よいこれ」
ハーヨイコレ 木曽の須原は ばねその本場 ホイ いつもさかんに 皆踊る
ハーヨイコレ 須原ばねそは お十六ばねそ ホイ 足で九つ 手で七つ
ハーヨイコレ 木曽の須原で 自慢のものは ホイ 須原ばねそと 定勝寺
ハーヨイコレ すばらしいぞえ 須原の桜 ホイ 漬けて煮え湯の 中で咲く
ハーヨイコレ 須原女と 江戸馬方は ホイ 馬につけても かたぎやせぬ
ハーヨイコレ 踊る心が 本当に大事 ホイ なにも忘れて ウキウキと
水舟の里
町の至るところに、水舟や井戸舟と呼ばれるものが数多くありました。
樹齢300年以上のさわら材をくり抜いて出来ているようです。
水舟
「水舟の水のきをめぐりて」
と歌われているように須原宿は中仙道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれた。
この水舟もその面影を残す。
風情のある建物
枡形(鍵屋の坂)
こちらも、須原宿の見どころの一つ。
須原宿 枡形 鍵屋の坂
枡形は宿場の京方(京都側)に設けられ反乱を起した敵を防ぐためのものである。
道路を直角に曲げ、攻めにくくなっている。
通称「鍵屋の坂」ともいう。
須原宿の枡形は形態がよく残されており、規模も大きく枡形の典型的な遺構として高い評価を得ている。
定勝寺
民謡『須原ばねそ』にも登場するように、こちらを素通りするのはもったいない。
旧中山道からはほんの少しだけそれますが、宿場町の発展には欠かせない場所としても訪れたい場所です。
定勝寺
嘉慶年間に木曽家第11代の源親豊公が木曽川あたりに開創し、その後木曽川の洪水による流出の後、当地に慶長3年(1598)に移建したものが現在の諸堂宇で、山門、本堂、庫裏何れも桃山建造物として国の重要文化財に指定されています。
定勝だるま大座像、人間国宝「香取正彦」作の大梵鐘のほか木曽氏歴代による寄進物も数多く木曽の古い姿を知る重要な資料となっています。
昭和27年3月29日 重要文化財指定
次回は民宿に泊まって、ゆっくり散歩したいなぁ。
所在地
- JR須原駅
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〒399-5502 長野県木曽郡大桑村須原
- 定勝寺
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〒399-5502 長野県木曽郡大桑村須原831−1
- 民宿すはら
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〒399-5502 長野県木曽郡大桑村須原840