徳川家康公が生まれ育った、岡崎城。
以前私は岡崎城は家康公が築いたと思っていましたが、もっともっと遡る歴史がありました。
”本来”の岡崎城の規模を体感したり、どうして今の場所につくられたのか、その謎にもふれることができました。
まずは、名古屋鉄道東岡崎駅からスタートです。
見どころは天守だけにあらず~
リアルな家康さんを体感
せいくらべ
名鉄『東岡崎駅』北口に観光案内所があり、家康と背くらべができる看板があります。
隣に並んでみましたよ。
案内所には豊富なパンフレットやグッズ販売もありますから、まずはこちらで情報収集も良いかもしれません。
手の大きさ
東岡崎駅内の観光案内所を通り過ぎ、西(ロッテリア・タクシー乗り場方面)へ20~30m歩くと、小さな花壇があります。
その中に、 家康の手形のモニュメントがあります。
家康の手相の特徴は、手のひらに横一文字にあるマスカケ線。
同じくマスカケ線がある有名人には、明石家さんまさん、イチローさん、桑田佳祐さん、アントニオ猪木さんなど、そうそうたるメンバーがみえるそう。
この手相は天運・強運の持ち主が多いらしいというのも納得です。
青空に映える凛々しい家康さん
東岡崎駅と商業施設(OTOリバーサイドテラス)を結ぶ通路を歩いていきます。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」の広告がお出迎え。
徳川家康全26巻(山岡荘八著)で予習復習♪
一般的には晩年の姿が象徴的な家康さんですが、こちらは徳川に改姓した25歳の姿。
若く勇ましい騎馬像は、新鮮な感じがします。
徳川家康公 1542-1616
1560年桶狭間の敗戦により岡崎への帰還を果たした松平元康が松平家康を経て徳川家康と改姓した25歳当時の若き日の家康公のモニュメントです。
令和元年11月吉日 岡崎市長 内田康宏
ピンチをチャンスに転換し、天下統一と平和な世の中を作り上げた郷土の英雄の姿から
「困難に立ち向かい、人生を切り開いてゆく」
三河武士の精神を子供たちに学んで欲しいという願いを込めています。
彫刻像の制作は日本芸術院会員の神戸峰男氏に、台座の揮毫は德川宗家第十八当主 德川恒孝氏に依頼しました。
像の建立にあたっては、多くの個人及び団体・法人の方々からの寄付金や募金が充てられています。
岡崎城の前身のお城
平岩城跡
騎馬像に別れを告げ階段を降りると、壁面に解説板がありました。
この辺り一帯が、平岩城跡にあたるようです。
ん?ところで平岩城ってどんな城?
平岩城跡(明大寺古屋敷跡)
明大寺周辺から岡崎城への都市機能の移転
徳川家康を輩出した松平氏が岡崎に進出する以前の領主は西郷氏であり、明大寺周辺を基盤としていました。
その本拠地が「平岩城」です。
15世紀中頃に西郷頼嗣は松平氏に対抗するための砦として、はじめて岡崎城を築いたとされていますが、本拠地は明大寺の「平岩城」のまま変わりませんでした。16世紀前半に松平清康(家康の祖父)は明大寺の西郷氏を攻略すると、岡崎城を大改修して本拠地とします。
これ以降、徐々に明大寺周辺の都市機能は岡崎城主となった田中吉政が城下町を整備して、東海道を岡崎城下に引き入れたことで、それまで明大寺周辺にあった宿場や流通の機能は失われました。平岩城跡の発掘調査
東岡崎駅周辺地区整備事業に伴い、乙川河川緑地を含む範囲の発掘調査が平成25~28年(2013-2016年)に行われました。
岡崎市まちづくりデザイン課
発掘調査では建物跡や溝跡、井戸跡などが多くみつかり、古代から中世までの集落遺跡であったことがわかりました。
中世段階には大型の溝跡や建物跡が規則的に配置されていることなどから、屋敷跡であったと推測されます。
近世の遺跡の痕跡がほとんど認められないことから、岡崎城周辺に都市機能が移行するにつれて衰退していった状況がわかりました。
すごく簡単にまとめると、こういうことらしいです。
西郷氏が明大寺(地名)に築城
西郷氏の本拠地、明大寺(地名)
松平氏に対抗するための砦
西郷氏 VS 松平氏、結果は…
松平清康(家康祖父)が岡崎を牛耳る
岡崎城(砦)を大改修し、清康岡崎城主に
にぎわいは、かつての明大寺周辺から岡崎へと移行する
総構えとは何ぞや
現在、岡崎公園として天守のある場所だけが、岡崎城というわけではなかったようです。
城下町もひっくるめた広いひろ~い敷地を、堀や土塁で囲んだ総構えの城だったというのです。
そりゃ歩いてみたくなりますよね。
総構えの一番外側の堀のことを「総堀」と呼ぶのね
見どころスポット
消滅した土塁と、その外側に堀(総堀)などがあった様子が、連尺通りの一角にある地図でよく分かります。
掘った土が土塁となり、土塁と堀は切っても切れない仲なんですね。
消滅した土塁(黄緑ライン)はある意味総構えの大きさを表しているということなのでしょう。
信濃門のあった場所に石碑がありました。
足助を通り信濃(長野)方面へ繋がっていたようです。
岡崎城北門 足助街道の起点
岡崎中央ライオンズクラブ35周年記念
塩の道としては有数の規模であった
このさき城内にて東海道と交わる
公園で発掘調査が行われた際の掲示がありました。
この広場の下に眠っている堀たち。
岡崎城総堀跡
岡崎城は城と城下町を堀や土塁で囲む「総構え」の城でした。
総構えの範囲は東西約1.5km、南北約1.0kmにも及ぶ大規模なものでした。
総構えの堀を「総堀」といい、徳川家康の関東移封後に城主となった田中吉政(在城1590-1600年)が初めて造ったことから「田中堀」とも呼ばれています。
この場所は総堀の北辺にあたります。平成30年(2018)の発掘調査では、総堀の城下町側の土塁及び堀法面が確認されました。
御旗講演解説版より
土塁の高さは約1.7mで、土塁の上端から堀底まで約2.4m以上の深さがあります。
総堀は甲山の北側から延びる谷地形を利用して構築されていまし。
総堀構築後の溝跡からは鉄滓(精錬や鍛冶の際に排出される不純物)が多く出土し、近接する材木町に多く居住した鍛冶職人との関連が伺えます。
家康の父 松平広忠、祖父の松平清康とその妻、そして岡崎城初代城主のお墓がありました。
大林寺
1493年、岡崎城主松平信貞が創立しました。
岡崎観光きらり百選№34大林寺 案内板より
家康の祖父、松平七代清康とその夫人春姫、家康の父広忠の墓のほか、松平氏入城以前の岡崎城主西郷頼嗣、松平信貞の墓もあり、それはそのまま戦国時代の興亡の縮図を見るようです。
松平氏の時代、この寺を岡崎城の守りの拠点としていたといわれるのも興味深いところです。
清康公ら静かに眠る
獅子頭石
家康公が子どもの頃、父広忠公の墓参りに際に持ってきた石との言い伝えがあるそうです。
清康公と広忠公のお墓の間辺りに、置いてあります。
墓地の裏手や表通りからも、ひと目で分かる高低差。
岡崎城立地の謎
河岸段丘ライン
なぜこの位置に城が築かれたのか。
それは、地図を見れば一目瞭然でした。
本丸は河岸段丘のラインに沿って造られています。
要するに河岸段丘を利用した高い位置は、天守を築くには好立地といえる訳なのですね。
街のいたるところに高低差がある理由も、河岸段丘ラインを行ったり来たりしていたからだと分かり腑に落ちました。
菅生神社由緒書に
「大神君家康公25才厄除開運のご祈願・社殿造営せられる等、崇敬篤く古来当神社は岡崎城内鎮守の守護神として、御代々の岡崎城主の祈願所となる。」
とありました。
石垣は菅生川(現在の乙川)に面して築かれ、西端まで約400mあります。
川は増水時に浸水被害をもたらしたため、中洲に「籠崎堤(人口の堤防)」を造り、流路の安定を図りました。
これらは同時期に構築され、完成は寛永元年(1624)とも正保元年(1644)ともいわれます。
堤は近代の河川整備で河川敷の下に埋もれています。平成28年(2016)の発掘調査により、石垣の高さが5.4mであることや、基礎に軟弱な地盤による不同沈下を防ぐ胴木が設置されていることなどがわかりました。
解説版より
みんなが欲しがる岡崎城。
半日歩きづめでしたが、”少し歩いてはここにも史跡”の連続で、歴史をたくさん感じることができました。